長文インタビュー

医師インタビュー企画 Vol.5 落合慈之

2014年1月22日

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勝ち負けのない世界で闘いつづける落合慈之。
「1952年関東逓信病院開院」、「2000年新病院完成・総合医療情報システム導入」。各科の診察の待ちあいスペースに設置された大きなディスプレイには、さまざまな情報の合間に、NTT東日本関東病院(以下、NTT関東病院)の歴史を紹介する印象的な2枚の写真が映し出される。特に後者の、最新の電子カルテやハイスペックの医療機器が導入された新病院の工事中の写真は、21世紀の幕開けにふさわしい医療機関を期待させるものだ。

落合慈之は、2002年に同院の院長となり、この新病院の舵取りを任された。経営ノウハウをまったく持たない彼だったが、以降、マネジメントを必死に学び、独自の経営観を培う。医療環境が激変する中、企業立の病院を経営するのは、並大抵でなかったに違いない。しかも、自院の「ひとり勝ち」では、まったく満足できない落合は、日本の医療そのものをより良くするために、常に闘いの渦中にあった。

新病院建設は大博打だった

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1999年、関東逓信病院はNTT東日本関東病院と改称、2000年12月には、改築して最新の電子カルテによる総合医療情報システムを導入した新病院を完成させた。

一見、大手情報通信会社が本業のアドバンテージを存分に生かして、今までの日本にはなかった最新鋭の病院づくりに挑んだように思われるが、事実は若干違う。

関東逓信病院は長い間の赤字体質から抜け出せず、親会社の民営化を機に廃院も検討されるほどのピンチに陥っていた。改築は、体制移行期の親会社が打った大博打に近いものだったのである。

博打に勝つために、白羽の矢を立てられたのが落合だ。1998年に同院脳神経外科部長に招かれ臨床の現場で指揮を振るっていたが、経営の経験もなく、帝王学を紐解いたこともない生粋の臨床医。

出身大学の医局で、尊敬する教授のリーダー然とした振る舞いを間近で見聞し憧れを抱きはしたが、人の上に立つ野望が内面から湧いた瞬間などなかった。

しかし、彼には、間違いなくリーダーたる素質があったようだ。

団結して21世紀最初の病院に

証左になるエピソードを、紹介しよう。新病院建設が決まった当時、廃院が検討された傷口は開いたまま、病院存続を素直に喜べない思いが、職員たちの心の中に澱となって沈んでいた。明るい未来を感じさせる病院オープンを目前にして、院内の雰囲気は気だるかった。

いぶかしく感じた彼は、入職したばかりの一介の診療部長にすぎなかったにもかかわらず、病院の職員に聞いてまわったという。「関東逓信病院を20世紀最後の病院にするつもりなのか、それとも21世紀最初の病院にするつもりなのか」と。

「振り返れば、本当に生意気だったと思います。でも私は、どの病院に勤務していても、ベストを尽くすことを信条にしてきましたし、ベストを尽くす仲間同士の中で働きたいと願ってきました。どうしても、言わずにはいられなかったのです」

誰かが見ていたのだろう。いや、関係者全員のコンセンサスだったのか。2002年、落合は指名を受け、院長に就任した。

右肩上がりからプラトーへ

vol5_3院長職に就いて11年目、その足跡を尋ねると、興味深い回答を披露してくれた。

「私が院長になる直前、1999年ごろは、かつてないほど多くの医療事故のニュースが、次々と日常生活に飛び込んできました。横浜市立大学病院の手術患者取り違え事件に端を発して、都立広尾病院で手術後の患者に誤って消毒剤入りの点滴を打って死亡させるなど、全国各地で医療事故が多発している様相でした。

そこで、一斉に医療安全が叫ばれるようになった。それをきっかけに『リスクマネジメント』という言葉が注目され、次には『セーフティマネジメント』、さらに『クオリティマネジメント』と病院がめざすべき姿が次々にメディアを中心に外から示されました。

この時期、乱暴に言うならば、病院経営は誰がやっても同じだった。外から示されるトレンドに沿っていれば、一定の成果を得られましたから。経営者のさじ加減、リーダーシップで、病院間に著しい差が生まれる環境ではありませんでした」

マニュアル的な経営方針をとっていれば一定の成果を得られ、合格点のもらえた時代。それでも経営者の能力が、まったく試されないときなどない。しばらくするとNTT関東病院は、横並びの病院から頭ひとつ出る存在になっていく。最新鋭の電子カルテによる院内の情報共有化を武器に、スタッフの数はそのままに入院患者数は約1.5倍に、平均在院日数も16日から10日にまで短縮した。

「しかし、世の常で、上昇は永遠ではありません。2008年ごろには、病院経営の改善の成果はプラトー(横ばい)の時期を迎えました。
手術件数も、患者数も、平均在院日数も、一定のところに達すると凪に入っていったのです」

めざすイメージは「金平糖」

vol5_4そうこうする中、小泉政権下では社会保障費の自然増分が5年間で約1.1兆円削減された。この間は、診療報酬もマイナス改定がつづく。医療費抑制政策の効果は、すぐに現れ、医療に効率が求められるようになる。プラトーを維持するだけでは、病院経営は立ちいかなくなる状況が見えてきた。

「効率化にはマニュアルはありません。病院それぞれの立ち位置、特徴、環境によって効率化の方法論は変わってくる。つまり、院長の手腕が問われ始めた――私はそう受け止め、心を引き締めました。
当院では、2009年の中長期計画から効率化を眼目に置いた施策を動かすこととしました」

効率化を推進するにあたっては、職員との徹底的な議論を展開した。

「当院は今後どんな病院になっていくべきかを議論すると、おおきく分けて2つの意見に集約されました。ひとつは、医療の先進性を重視して、どこにも負けない何か秀でた特徴がなければダメだとの意見。もうひとつは逆に、総合力をつけて今でも患者数の3分の1を占める近隣住民のために地域に根ざした病院であるべきとの意見。
エッジの効いた特徴ある病院がいいか、地域密着型がいいか。選択するのも、折衷の落としどころを見つけるのも、とにかく難しい事柄です」

議論は、時に紛糾し、迷走した。明快な結論は、いまだ得られていないという。

「それでも、議論を避けてはなりませんし、模索は果てしなく継続すべきです。ひとつだけ確かなのは、もう、年前の医療のかたちを守っているだけでは生き残れない時代になったとの事実でしょう」

結論は出ないにしても議論が重ねられる中で、落合には同院のめざすべき姿がしっかりと見えている。

「栗やウニのようにトゲばかりで『とんがり』すぎた存在はめざすところではない、しかし、トゲをすべてなくし『なんでもかんでも』の医療を提供するのも間違いである。『適度な数のトゲが適度にトガッている』金平糖を、めざす病院のイメージとしています」

国内では2番目にJCIを取得

vol5_5医療の効率化が叫ばれる時代、同時に社会の要請として浮かび上がってきたのが国際化だ。

「医療の国際化の議論が進むと、国際的な基準をクリアした医療機関は日本にいくつあるのかといった声が聞こえるようになってきました。海外からの患者を受け入れられるような、いわゆるメディカルツーリズムを可能にする病院があれば日本の医療が産業として栄えるといった提言も各所で取り上げられた。

何もわかっていない識者が、勝手に日本の医療機関のレベルに関して云々するのには少しカチンときましたね。ですから、当院が日本では2番目にJCI(Joint Commission   International/国際医療機関認証)の認証を取得したのは、ちょっとした男気があったからです(笑)。懸念があるなら、解消の手立てを示すのがいちばんだと思いました」

東京在住の外国人に適切な医療を

メディカルツーリズムは、現在、取り組むいくつかの事案の中でも、かなり上位に位置するようだ。

「本論に入る前にまず、適用されている用語が世間に誤解を撒き散らしている点を指摘したいですね。

『メディカルツーリズム』――日本人は、『ツーリズム』の部分を直感的に『観光』と受け止めてしまうので、観光産業の一部のような扱いになりがち。『自国で受けられない医療を求めて国境を越える』との意味のメディカルツーリズムの可能性は、もっと医療界でシビアに検討されるべきだと考えます」

現実として、自由診療に抵抗感を示す日本社会に、国境を越えて特別な医療を享受しようとする外国人の受け入れは可能なのか。

「議会や世論が国是をどう定めるか次第ですが、もし、海外からの来訪者への適切で質の高い医療提供を是とし、必要な体制づくりも厭わないのが総論ならば、医療界はしかるべき協力をすべきです。
私自身は是とされるのが理想と考えており、現状、当院ができる範囲での試みとして、『東京在住の外国人に、適切な医療の提供できる仕組みづくり』を推進しています」

医療目的の渡航者に限らず、観

光やビジネスで日本を訪れている際に病気になった外国人が、簡潔でアクセスしやすい仕組みのもとで適切な医療を受けられれば、その分我が国の国際的信用も高まるはずだとの見解だ。

自院の廃院さえも覚悟して臨む

vol5_6しばし、落合の鳴らす警鐘に、耳を傾ける。

「私は、日本の医療は世界に比して劣っているとも後れているとも思いません。むしろ、すぐれている部分が多いとさえ思う。
けれども、そのすばらしさを国民の皆さんがわかっておらず、大事にしていない状況にたいへんな危機感を抱きます。

だから、湯水のごとく医療を使い、医療費予算がいくらあっても足りなくなる。
行政は、なんとか抑制しようと懸命ですが、拙速にすぎたり、今のところ的を射た施策は出せずにいます。

では、医療提供者はと見ると、医療者も関係者のひとりとして議論を繰り返しています。しかし、最近は、いつも、変わり映えしない5つ前後の、答えというか問題提起が出る会合に終始している。

(1)健康保険料をもっと値上げするべき、
(2)国民の啓発が必要、
(3)医療を産業として育てる、
(4)医療機関の無計画な設置をしない、
(5)医師、看護師などの医療提供者の育成を計画的に行う――といったところでしょうか。

しかも、そんなことを熱っぽく語った出席者も、話し合いの場をあとにした瞬間から、『自分の病院は、どうやって生き延びるか』ばかりを考えています。本来であれば、日本の医療界を見わたして、自院に存在意義を見出せなければ、廃院さえも覚悟して臨むべき厳しい現状なのにです。医療を受ける側も提供する側も、あまりに危機意識が希薄すぎる。このままでは、日本の医療が崩壊にいたるのは自明でしょう」

GS1に突破口を求めて

vol5_7医療崩壊を避ける有効な方法は――落合は、2009年5月28日に「GS1ヘルスケアジャパン協議会」の設立に参加し、会長職を引き受けた。協議会の目的、活動内容の詳細は公式HP( http://www.dsri.jp/gshealth/ )を参照されたい。GS1(Global Standard One)はバーコードによる電子商取引のデータベースを同期させる仕組みや商品追跡をする仕組みの構築を推進する流通標準化機関。「GS1ヘルスケアジャパン協議会」は、GS1内に設置された医療分野の協議会「GS1ヘルスケア協議会」の日本支部だ。

「電子カルテに代表されるように、日本の医療機関にも着実に電子化のトレンドが生まれており、早晩、薬剤管理とカルテ管理にバーコードが導入されるはずです。せっかく設備投資をしてバーコード管理をするならグローバルスタンダードなものを導入したほうが汎用性も拡張性も高いはず。薬剤管理とカルテ管理を、医療安全に役立てることもできます」

GS1のデータベースの同期と商品追跡の機能が、医療安全と医療経済を飛躍的に前進させる。彼は、そこに大きな可能性を見出している。

「患者さんと薬、加えて治療や検査の記録がバーコードで同期していれば、何かを知りたいとき、いつでもどこまででも受療記録をバックできる。医療事故の原因究明にも生きますし、患者さんのドクターショッピングの全貌だって解明できる。疫学統計で必要なデータも膨大に得られるでしょう。

患者さんの個人情報保護さえ徹底すれば、多大なメリットを期待できる取り組みです」

他業界での常識を取り込む

vol5_8メディカルツーリズムにしてもGS1ヘルスケア協議会にしても、率先して取り組む事案からは、「医療界以外」の業界で常識となっていることを医療界に取り入れるべきだとの信念が読みとれる。ただし誤解してはならない。市場原理主義を振るって医療界を変えようなどとは考えていない。

「革新的な機能はどんどん取り入れるべきですが医療の活動原理は競争ではなく協働であるとの認識を見失ってはなりません。医療の提供側には、常にサプライそのものをシェアし合う考えが必要。たとえば特定の医療機関が地域での『ひとり勝ち』をめざすなど本末転倒でしょう。そんな邪な考えで運営する病院があるとしたら、いつかは確実に過剰投資による破たんといったしっぺ返しなどに見舞われるはずです」

ここまでの挑戦や闘いは、克つためであって、勝つためではない。ましてや、自院のメリットの追求のためなどではない。落合は、日本の医療の活性化なくして、自院の活性化もないと思っているし、医療に勝ち負けなどないのだと知っている。しかし、だとしたらなんと過酷か。敗者を決める勝負でなければ、闘いに終わりはない。

いつ覚悟を決めてくれたのだろう。病院長に指名されたときか、それとも母が後継を切望した父の診療所には戻らないと決めたときか。いずれにしろ日本の医療のために終わりなき闘いの道を選んでくれた勇者に感謝の目礼を捧げたい。

「GS1」とは?

1977年にヨーロッパ12ヵ国の流通業界団体と流通コード管理機関によって、国際EAN(European Article Number)協会の前身となったEAN協会が創設されました。流通システム開発センターは、創設の翌年1978年に加盟が認められた創設メンバーに次ぐ古いメンバーです。2002年11月、米国の流通コード機関であるUCCとカナダの流通コード機関であるECCCが国際EAN協会に加盟したことにより、同協会が、名実ともに世界のグローバルな流通標準化機関になりました。これを受け、2005年1月、国際EAN協会の組織名も“GS1(ジーエスワン)”に変更され、新たなGS1体制がスタートしました。GS1の加盟機関は、その国・地域を代表する流通コード機関で、現在、100以上の国・地域が加盟しています。GS1では総会(通常5月)とフォーラム(通常2月)をそれぞれ年1回開催し、事業計画や予算、新規加盟、規約改正などGS1の重要事項を審議しています。

*「GS1ヘルスケアジャパン協議会」HPより http://www.dsri.jp/gshealth/

落合 慈之
おちあい ちかゆき
NTT東日本関東病院院長

1971年  東京大学医学部医学科卒業 東京大学医学部附属病院脳神経外科研修医
1977年  日本脳神経外科学会認定医(現専門医) 東京大学医学部附属病院脳神経外科文部教官助手
1979年  東京大学医学部附属病院脳神経外科医局長
1981年  東京大学医学部附属病院脳神経外科文部教官講師・外来医長
1982年  東京大学医学部附属病院脳神経外科文部教官講師・病棟医長
1985年  獨協医科大学脳神経外科助教授
1996年  JR東京総合病院脳神経外科部長
1998年  関東逓信病院脳神経外科部長
2002年  NTT東日本関東病院(旧関東逓信病院)院長

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