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診療への悶々とした思いが一転 国内留学で得た衝撃とは―河南真吾氏(徳島県立海部病院)

2019年10月18日

河南真吾(かわみなみ・しんご)氏は医学生のときに同行した訪問診療の衝撃から、徳島大学卒業後に母校の総合診療部に入局します。総合診療部で日々診療する中で、ある悶々とした思いを抱き始めます。そんな折、亀田ファミリークリニック館山への国内留学をきっかけに、30代半ばにして自らの役割を見出しました。それまでの気持ちの変化や現在の活動拠点である徳島県立海部病院での取り組みを伺いました。(取材日:2019年7月6日)

地域医療実習での衝撃

――河南先生がプライマリ・ケアに進んだのはなぜですか。

徳島大学総合診療部の谷憲治先生が立ち上げた、地域医療研究会に入ったことがきっかけです。当初は谷先生からのお誘いを断れず「参加するだけなら……」と思って入ったので、正直、興味があったわけではありませんでした。ところが、そこで参加した地域医療実習が自分に合っていると感じたのです。
今でこそ地域医療実習は全国の医学部でカリキュラムに組み込まれていますが、私が学生だった2006年頃は必修ではありませんでした。私は県内の医療過疎地の病院に泊まり込み、そこで診療している医師に同行させてもらう実習に参加しました。いくつかの病院で実習させていただきましたが、どの病院の医師も長年その地域に住み続け、住民たちに慕われていました。草の根的に地域の健康を守ったり、町長と仲良くなって町の健康政策に積極的に関わったり――医療を通じて、町の人たちが安心して暮らせる環境を実現するその姿に、純粋に憧れたのです。

初めて訪問診療の見学をさせてもらった時のことです。患者さんが亡くなったと先生宛に連絡があり、私も在宅看取りの現場に同行しました。
自然豊かで畑が広がる静かな地区の一角に、ポツンと建っている立派な家。そこに白衣姿の先生と私が入っていくと、広い室内には既に親族が大勢集まっていて、私たちに感謝の言葉をかけながら招き入れてくれました。先生は患者さんの元にたどり着くと、お看取りの確認をして、亡くなられた患者さんの人生に関わった人たちに「よく頑張ったね」と笑顔で語りかける――。その姿が衝撃的でした。その時、地域医療に携わる医師は病気だけを診ているのではなく、患者さんの人生に密接に関わっていることを強く感じました。もともと、健康な人をより健康にしたいという動機から医師を志していたので、病気だけを診るのではなく、人の人生に深く関わり、人が健康で幸せになることを助けられる医師になりたいという気持ちが強くなっていきました。

このような経験をする一方で、幼少期に仲が良かった友人のお父さんが立派な産婦人科医であり、その姿への憧れから産婦人科医も捨てきれず、どちらを選ぶか大学卒業ギリギリまで悩んでいました。関東の研修病院にマッチングしたら産婦人科に進もうと思っていたのですが、全て落ちたので「これは産婦人科医を諦めろということだろう」と勝手に解釈して、最終的にプライマリ・ケアに進むことにしたのです。

亀田で受けたカルチャーショック

――医師5年目に徳島大学から亀田ファミリークリニック館山へ国内留学した経緯を教えてください。

当時の医局には総合診療を体系的に学ぶというより、広く内科を診る中で内科系サブスペシャルティのいずれかを身につけることを方針としていました。私は医師3~4年目に消化器内科を選択していたのですが、谷先生から「うちの総合診療部には、プライマリ・ケアについて体系的に語れる人がまだいないから、見識のある先生方の下で学び、教えられる人間になって帰ってきてほしい」と言われたのです。
いくつか見学したうえで谷先生に相談し、助言をいただき、最終的に亀田ファミリークリニック館山に行くことになりました。

――亀田ファミリークリニック館山で学んでみていかがでしたか。

本来のプライマリ・ケアを知ったことはもちろん、それまで自分が体系立てて知らなかったけれども、大事だと感じていたことを当然のように行っている集団がいることに衝撃を受けました。

実は消化器内科で勤務する中で、悶々とした思いを抱いていたことがありました。疾患を治すため過量に近づいても検査や投薬をするよう上級医から指導は受けます。しかし、治療の核から離れた本人のQOLに関わる症状マネジメントに対しては、当時は周りが消極的でマネジメントしにくかったのです。ところが亀田ファミリークリニック館山では、私がやりたいと思っていたQOLに関わる症状マネジメントを当たり前に行っていたのです。具体的には疾病予防のための予防接種計画、小中学生を対象にした健康教室の開催、保健師や学校の先生と協力して不登校の子どもに対応するなど、家庭医を知らない世界なら「それは医師の仕事ではない」と言われてしまうことを皆さん実践されていて、カルチャーショックを受けるとともに安心感を覚えたのです。

自分や家族が病気になった時に診てもらいたいのは、まさにこのような家庭医であり、自分もそういう医師になりたい、全国にこういう医師がいるべきだと思いました。徳島県内にも同様のことを実践する医師が一部いて、私もそういった先生に憧れてプライマリ・ケアに進みました。しかし、亀田ファミリークリニック館山の家庭医のようにプライマリ・ケアのあるべき全体像をとらえて実践し、言語化しながら後輩へ教育する医師はいませんでした。それならば、自分がその役割を担おうと思いました。

自分を育ててくれた徳島で、後進を育てる

――2017年に徳島大学へと戻ってきた後は、亀田での学びをどのように活かせていますか。

今は徳島大学の助教になり、県立海部病院で研修や実習の指導にあたっていますので、そこで活かしています。海部病院では、徳島大学病院などからの希望者が地域医療研修を受けられます。徳島大学病院の初期研修医で、海部病院の研修を希望する人数は近年増えました。

正直、学んだ全てを研修医や医学生たちに経験させることは難しいのが現実です。なぜかと言うと、亀田ファミリークリニック館山で学んだのは診療所ベースの家庭医療であり、当院はセッティングの異なる急性期病院であるからです。しかし、当院の在宅医療は家庭医療の強みを発揮しやすい終末期ケア・お看取りの機会が多々あります。彼らには訪問同行してもらっていますから、私が医学生のときに覚えた衝撃や憧れを、彼らにも感じてもらえたらと願っています。
また、私は月に1回、地域のどこかで健康教室を開くことをルーティンにしているので、研修医や医学生たちにも参加してもらい、地域の人たちと話してもらっています。もともと県内に家庭医療を専門にしている医師が少なく学びの機会が多くないことや、家庭医療ならではの経験ができることから、県内で数少ない家庭医療専門医を通じて学べる地域医療研修に、彼らの満足度は高いと感じています。

――今後の展望は、どのように思い描いていますか。

私が大学に戻るタイミングで、岡山家庭医療センターの指導医をされていた先生が徳島大学総合診療部に赴任されました。それもあって、徳島県にも家庭医療をベースにした医師が少しずつ増えています。とはいえ、医局も人手が十分ではありませんし、家庭医が診療所に出てしまうと、研修医や医学生たちがプライマリ・ケアに触れる機会が減少してしまいます。そのため、しばらくは引き続き、大学でプライマリ・ケアのエッセンスを後輩たちに伝えていきたいと考えています。

――徳島県でプライマリ・ケアを根付かせた後は、地元の千葉県に戻る予定ですか。

遠方に家族のいる患者さんを診るにつけ、寂しいことだなと思ってしまいますが、私自身、千葉県に住んでいる両親を同様の立場に立たせてしまっています。もし何かあったときにすぐ駆けつけられる距離にはいたいと思うので、いずれは関東に戻ることも考えています。しかし、医師としての自分を育ててくれた徳島県に貢献したいですし、この地に骨を埋めていいとも思っています。総合診療医や家庭医を増やすためには、徳島に数年いるだけでは何の役にも立ちません。プライマリ・ケアに進む後輩を増やすためにも、もう少し長いスパンで県内のプライマリ・ケア領域の教育に携わり、ある程度目処が立った時点でその後のことを改めて考えようと思っています。

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