東京大学医学部を卒業後、同大学附属病院精神科に入局した小林和人氏。医局人事で赴任した病院に2年務めた後、自転車でシルクロード、オーストラリアを横断。そして2008年、山形県酒田市の山容病院に入職しました。2011年には院長に就任した小林氏が、山容病院で推し進めたいこととは?
精神疾患による自殺者減少を目指して
-現在、山容病院ではどのようなことを行っているのですか。
わたしが院長に就任してから当院では、精神疾患の患者さんの社会復帰を最大の目標に据えて、日々診療を行っています。個人精神療法と薬物療法の他に、「精神科デイケア」や「グループホーム」、復職支援専門のプログラム「リワークデイケア」、精神疾患により日常生活に支障や問題を抱えている方の心と体の機能回復を目指す「精神科作業療法」、アルコールの問題を抱えた方のグループ「SSA(酒田山容アルコール勉強会)」「CST(再飲酒予防トレーニング)」などに取り組んでいます。アルコール依存症治療に関しては、2012年から山形県庄内保健所とともに事例検討会を行っています。
-行政と共に治療プログラムを進めている経緯を教えていただけますか。
山形県の自殺者数は、全国第9位です(平成26年厚労省統計)。その中でも庄内地域は、人口10万人あたりの自殺死亡率が23.4人と、山形県の21.6人に比べて高いのです。自殺原因の第1位は健康問題で、その内訳は精神障害、病苦、そしてアルコール依存症と並びます。
実際に診療していても、アルコール依存症の治療を中断した患者さんが事件を起こしたこと、自殺してしまったことを新聞記事やおくやみ欄で知ったことも頻繁にありました。来院者はアルコール依存症の氷山の一角でしかないと感じ、アルコール依存症の治療プログラムを立ち上げました。それから1年後の2012年7月、スーパーバイズ事業を立ち上げたいと山形県から、依頼がありました。
「やりがい」を感じた山容病院に就職
-なぜ、精神科医を目指されたのですか。
精神科の文化的要素が強く反映されている点に興味を持ちました。ただ、当時は現在の研修制度が始まる直前だったので、いきなり精神科に進んでしまうと医師としてジェネラルに診ることができなくなるのではという思いがあり、かなり悩みました。しかし、病院実習時の担当医師の後押しもあり、東京大学医学部を卒業後、同大学医学部附属病院の精神科に入局しました。
-どのようなご経験を経て、山容病院に就職されたのですか。
入局した1年後、2年契約で福島県郡山市の針生ヶ丘病院に赴任しました。契約終了時に退職し、医師になる前から趣味だった自転車でシルクロードを横断し、その2年後の2007年にはオーストラリアを横断しました。
オーストラリア横断の際、臨床の感覚を取り戻すため、そして旅行資金を稼ぐために3カ月だけ一時帰国しました。その時、期間限定で勤務したのが山容病院だったのです。この間に、開放病棟の患者さん55人全員の減薬に成功。当時はまだ、減薬が周囲から嫌がられる行為でした。しかしわたしは、「減らすべきなら今減らそう。できることは症状が落ち着いている時にやろう」という、研修医時代からの考えを貫きました。自分が考えた治療方針を実行できてやりがいを感じたこと、山容病院が人手不足だった背景もあり、帰国後そのまま就職することにしました。
-山容病院に就職してから最も苦労したのはどのようなことですか。
当時の山容病院は、多剤併用でも減薬を試みることなく、長期方針が曖昧なまま対症療法に終始して長期入院をさせている状態でした。そのため、わたしの治療方針をスタッフに理解してもらうための勉強会を行うなど、意識改革を推し進めていました。その真っ最中だった2011年、もともと4人だった医師が半減し、急きょわたしが院長を務めることになりました。それからの3年間は常勤医2人で日々の治療を行い、一時期は1人ですべての業務を行うこともありました。医師不足の中、診療と並行して経営改革も進めていた時期が精神的にも肉体的にも一番つらかったですね。
地域にとって、もっと身近な存在に
-つらかった時期を乗り越えられたのはなぜだと思いますか。
「自分の限界が見えてくると、それを越えたくなる」という性格だからだと思います。
たとえば、患者さんから建物が汚い、冷暖房の調子がおかしいから変えてほしいと言われても、勤務医としては何もできませんし、そもそも勤務医が関わる領域を越えていると思われるかもしれません。ただそんなとき、わたしは「勤務医だから関係ない」ではなく、「何とかしたい」と思うのです。当院を必要としている方々が、より来院しやすくするために自分の限界を越えて改善していきたいという思いも、モチベーションとなっていました。
また、シルクロードやオーストラリアなどを自転車で周り、さまざまな経験をしたことも大きいですね。一人旅での出来事はすべて自分の責任です。たとえば、飲み物を入れている容器に穴が開いて、走っている間に水がすべてこぼれて自分が飢えたとしても、誰にも文句は言えません。それを選んだ自分の責任と思わないと旅は続けられませんでした。しかし、自分を責めてばかりだと「なぜこんなことをやっているんだろう」と挫折してしまいます。それを享受して、前向きな気持ちに変えてまた走り続ける。その繰り返しを経て1万km以上走ることができたという事実が、理事長・院長・臨床医としての自分に良い影響を与えています。
-今後の展望を教えてください。
消防署や警察署のように、地域にとって絶対的に必要なインフラとして、山容病院の地位を確立させたいですね。しかし、いまだに「精神科に入院するくらいなら、死んだほうがマシだ」と言われてしまうこともあります。そのような状態では、医療として成り立ちません。
地域から求められる存在となるためには、まずは今以上に敷居が低く、開放的な病院になること。アルコール依存症や近年増加している認知症など、さまざまな精神疾患の早期受診を促せるように努めていきたいと考えています。幸い、医師も3人に増え、スタッフ全員で同じ目標に向かって進めるようになり、医療レベルも向上してきています。さらに良い人材を集めつつ、自転車と同じように、目標に向かって前進していきたいと思っています。
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