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「安定より旅がしたい」ノマド医師の人生観―国境なき医師団に参加する医師たち vol.4(後編)

2019年7月5日

母親の寄付活動がきっかけで幼い頃に国境なき医師団(MSF)の存在を知り、2011年の東日本大震災で救急医を目指すことを決意した真山剛先生。MSFで活躍するためのキャリアと経験を積んで、今もミッションに参加する傍ら、バックパッカーとして世界中を旅しています。活動中のある経験から、一時は参加を辞めることも考えたという真山先生。それでも活動を続ける理由とは、いったい何だったのでしょうか。(取材日:2019年4月10日)※前編はこちら

ファーストミッションで拍子抜け?

―――医師になって7年目にMSFに応募。救急医の専門医資格を取得した3カ月後、2016年6月にファーストミッションのため旅立ちます。

まずパリで2日間、活動内容についての説明を受けました。あとは明朝リビアに発つだけ、という夜に、「明日の出発は中止」という一報が飛び込んだのです。派遣予定の病院で爆破事件があり、安全面の確保が難しくなってしまったようでした結局プロジェクト自体がなくなり、帰国することに。仕方がないのですが、それなりに覚悟を決めパリまで飛んだので残念でしたね。

―――その2カ月後に、イラク北東部・クルド人自治区にあるスレイマニアの救急病院に派遣されます。そこではどのような活動をされたのでしょうか。

僕を含め4名の医療スタッフが派遣され、僕は救急救命室(ER)に配置されました。もともとは現地の医療従事者で成り立っていた病院なのですが、過激派武装勢力「イスラム国(ISIL)」による攻撃が激化し、スタッフがいなくなったり避難民が病院に押し寄せたりと機能不全に陥りかけていたところに、サポートに入った形です。
また、ISILが支配する戦線の危険地域と、安全な地域の境界線付近にクリニックを設け、診療を行いました。危険地域から逃れてくる避難民の中には、医療を受けたことすらない人もたくさんいます。命からがら逃げてきて、その境界線を越え初めて診察を受けることができるのです。その他にも、たとえば咳が出たときにただの風邪か肺炎かを見分ける方法といった予防医学的な知識・情報の共有なども避難民キャンプでは行っていました。こうした健康啓発の活動も、MSFの重要な役割です。

―――実際に活動してみて、想像とのギャップや驚きはありましたか?

人手不足で寝る間もないような生活をイメージしていましたが、初期の頃はMSFの医療チームがいなくても運営が十分成り立っていたので、少し拍子抜けしましたね。皆で、「(僕らが)いる必要はあるのかな」と話していたぐらいです(笑)。しかしあるとき、近くのキルクークでISILの戦闘員数十名がクルド人治安部隊と衝突し、銃創の重症患者が50人近く救急搬送されてきました。

当時、キルクークではあちこちにISILの戦闘員が身を潜めており、奪還を試みるクルド人治安部隊やイラク軍との間にしばしば戦闘が勃発していたのです。僕はそうした背景について、詳細には認識していなかった。にわかに患者や医療スタッフ、報道陣で埋め尽くされたERの光景を目にして、ここで暮らす人々にとって戦闘は日常の延長線にあること、だからこそMSFが自分たちを派遣したのだ、ということを実感しました。

忘れられない光景…それでもミッションを続ける理由とは

――チームのスタッフとコミュニケーションはうまく取れましたか?

日本人は僕だけだったので、最初はドキドキしました(笑)。でも他にも英語が母語ではない人がいて、お互い多少のたどたどしさが前提のコミュニケーションだったので特に問題なかったです。むしろ異郷で医療を行う身として、共感しあえる相手がいることにずいぶん助けられました。

特に心強かったのは、オーストラリア人の男性看護師の存在です。波長が合うというか、お互いにつらさや嬉しさを感じるタイミングが同じで、活動の中でアップダウンを共有していました。たとえば現地のドクターと治療方針の違いで対立して悩んだり、戦闘で負傷した大勢の患者に対して、「出来る限りの治療をしたものの本当にこれでよかったのか」と自問自答したり…。そんなとき、悩みを分かちあえる相手がいるということに救われました。なまりが強くて最初は何を言っているのかわかりませんでしたが(笑)。

―――計3回の活動の中で、特に印象に残っていることは?

2回目のミッションで2017年11月に、ISILより解放されたシリア北部の町近くのプロジェクトに派遣されたときのことです。ミッションは、救急診療所(ER)と外来診療所(OPD)を設立するという緊急援助活動でした。

1日に4~5人は、ISILが残した地雷や仕掛け爆弾で負傷した重症患者がやってきました。診療所に運ばれた時点で既に手の施しようがないケースも少なくありません。レントゲンもない簡素な診療所でできる限りの対応をするしかない状況です。

そんなある日、地雷被害にあった家族が診療所に搬送されてきました。3人の子どもは幸い軽傷でしたが、母親は即死、父親も片足を失っています。父親を病院に搬送した後、その事実を子どもたちにどう伝えればよいか、という問題に直面しました。そんな我々の空気を察知したのか、急に1人の子どもが泣き出し、止める間もなく救急室に走りこんだんです。そこで息をしていない母親の姿を見つけ、阿鼻叫喚に。それが兄弟にも次々に伝染してしまって…。僕は、目の前で起こっている出来事をただ眺めることしかできませんでした。2年近く経った今も、彼らのことが心のどこかでずっと気になっています。正直、帰ってきてしばらくは再びMSFへ参加するのは厳しいかなと思っていました。

――それでも3回目の活動に踏み切った理由は?

なぜでしょうね。たぶん少し時間を置いて状況を客観視した時に、「あそこに自分がいたことには確かに意味があった」と実感できたからだと思います。あの時、僕がいなければ現場はどうなっていたか考えると、少しは役に立てたのかなと。日本のように恵まれた医療環境では、もし僕がいなくなってもある意味代わりはたくさんいる。しかし、MSFの活動では限られたリソースの中、文字通り自分が現地の人々の生命線になりえます。きついことはあるけれど、それだけ誰かの役に立てるやりがいも大きいです。

訪れた国は40以上!活動の合間はバックパッカー

――一方で、活動の合間にはバックパッカーとして海外を回られています。

後期研修、僻地での勤務、そしてMSFとずっと走り続けてきたので、少し休んでリセットしようと。また、学生時代から好きだった旅への欲求もあって、1回目のMSF派遣が終了した後、無所属のバックパッカーになりました(笑)。その時は、7カ月ほどかけて約20カ国回りました。

インドネシアからスタートして、東南アジアをぐるっと回り、北上して中国へ。それから中央アジアに進み、ウズベキスタンやタジキスタンを経由しながら、カスピ海を越えてジョージアから欧州へ向かいました。欧州も一通り回ってからはアイスランドへ、さらに南アフリカに飛んで北上しました。そこでMSFからシリアへの派遣要請があって、いったん旅を中断し帰国したんです。シリアへの派遣後もまた旅に出たので、かれこれ40カ国は回っていると思います。MSFを通して世界中に友人ができたので、旅しながら仲間に会いに行ったりもしましたね。

――MSFと旅が先生の中心にあるんですね。現在はどのようなワークスタイルなのでしょうか。

もちろん、また旅には行きたいです。ただ3回目のミッションで痛感したのは、定期的に臨床で経験を積まないと身につけた知識や技術は失われてしまう、ということ。ずっと旅ばかりしていてはMSFの活動にも支障を来すので、一度日本の臨床に戻ろうと考えました。

現在は日本の病院で知識やスキルをアップデートして、タイミングを見てまたMSFに参加しようと思っています。その後のことはまだ決めていませんが、MSFの活動と旅は僕の人生から切っても切り離せなくなっています。

1つの病院に長く勤めてたまにミッションに行かせてもらう、という働き方のほうが安定していますし、「この期間ならMSF活動に参加していいよ」と理解を得られやすいのかもしれません。でも、僕は1か所に留まるのが向いていないみたいで。別の場所へ向かいたいという衝動に駆られてしまうんです。「旅→ミッション→病院勤務」の繰り返しが自分には合っているのかなと思います。あまり人にオススメできるキャリアプランではありませんが(笑)。

――真山先生にとってMSFの活動とは?

うーん…。一言で表すなら、“自分を変えてくれた存在”でしょうか。現地の医師や患者とコミュニケーションをとるにはその国の歴史や文化、宗教などへの理解が不可欠です。僕は生粋の理系ですが、MSFの活動を通し、医療を行う上で社会的背景への目配りがいかに重要かを学びました。また、現地に足を運び、自分の目で経験した分だけ、世界が近くなった。国際情勢なども自分事として捉え知ろうとするようになりました。日本でキャリアを積めば、医療のスキルは今より上がっていたかもしれません。しかし人として視野を広げられたことは、僕の医師人生においても大きな財産だと思います。

前編はこちら
真山剛

千葉県出身、救急専門医。2010年東京大学卒業後、磐田市立総合病院、国立国際医療研究センター病院、石垣島の県立八重山病院地域救命救急科でキャリアを積む。初期・後期研修時にネパール、ラオス、ボリビアで医療活動を経験。2016年8月に国境なき医師団(MSF)に初参加し、イラクに派遣。帰国後、バックパッカーとして世界約40カ国を回る。2017年11月にはシリア、2019年1月にはイエメンで、MSFの救急病院の開設プロジェクトに従事。現在は帰国し、2019年4月から日本の医療機関で働く。

【国境なき医師団について】
国境なき医師団(Médecins Sans Frontières 略称MSF)は、紛争や自然災害、貧困などによって命の危機に瀕している人びとに医療を提供する、非営利で民間の医療・人道援助団体。「独立・中立・公平」を原則とし、人種や政治、宗教にかかわらず援助を提供、医師や看護師をはじめとする海外派遣スタッフと現地スタッフの合計約4万5000人が、世界約70以上の国と地域で援助活動を行っています。1971年にフランスで医師とジャーナリストによって設立され、世界29ヵ国に事務局をもつ国際的な組織で、活動資金の95%以上は個人を中心とする民間からの寄付金に支えられています。
1999年にはノーベル平和賞を受賞。MSF日本は1992年に設立され、2017年には117人のスタッフを、のべ169回、29の国に派遣。現在も、活動に協力してくれる日本人医師を求めています。

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