母親が募金をしていたことをきっかけに、国境なき医師団(MSF)で活動する医師に興味を抱くようになった真山剛先生。2011年の東日本大震災をきっかけに救急専門医を志し、同時にMSFで活動するためのキャリアを選択します。真山先生が選んだ道筋とは?前編では、真山先生がMSF に参加するまでのお話を中心にご紹介します。(取材日:2019年4月10日)※後編はこちら。
縁もゆかりもない静岡で初期研修を受ける
――医師を目指したきっかけを教えてください。
幼い頃に母親が国境なき医師団(MSF)に募金をしていたことが頭の片隅にあって、医師という職業への漠然とした憧れはもともと持っていたんです。さらに高校生の時、初めて目にしたMSFのニュースレターが南米の感染症を扱っていて、学問的な興味を覚えたことも後押しになりました。これはもともと自分が旅好きだったことも影響しています。旅の事前準備として、感染症の知識も必要ですから。
一方で、当時はちょうど地球温暖化が社会問題としてとりあげられており、環境問題やエネルギー問題にも興味があって。医師になるか研究者になるか、迷いつつ東京大学の医学部に進みました。様々な授業を受ける中で、人と接する仕事であること、自分の処置の結果が患者さんの健康にダイレクトに反映される、つまり自分の仕事が人の役に立っていると実感できる点が自分には合っていると感じ、医師の道に進むことにしたんです。
――大学卒業後、初期研修に静岡の病院を選ばれた理由は?
実は、静岡に個人的な縁やゆかりはありません。静岡に行ったのは、未知の土地に行きたかったから。父が大手通信社のジャーナリストだったこともあり国内外の転勤が多く、3年以上同じ場所に住んだことがないんです。その影響で、僕も放浪気質というか、いろんな場所に行ってみたいという気持ちが強くて。学生の頃も、バックパッカーとして長期休暇中にヨーロッパやアジア、南米などを回っていました。新しい場所への興味が強い性格なので、たまたま故郷が静岡という大学の同期に「こんな病院があるよ」と教えてもらって行ってみたくなったんです。ふらりと見学に訪れたら、茶畑のまんなかにぽつんと病院があって。指導医の先生とお話させていただいて「気の合う方だな、ここで学ぶのは良さそうだなあ」とあまり深く考えずに決めました(笑)。
―――かなえたいキャリアから逆算して進む道を選ぶ先生も多いようですが…。
当時は計画的に行動するタイプではなかったんですよね。5年後、10年後を見据えて動くよりも「とりあえず来年なにするか考えよう」という方が性に合っていたんです。静岡に行けば友人にも会いづらくなりますし、知り合いが1人もいないので不安はありましたが、なんとかなるだろうと。実際、初期研修はとても楽しかったです。
救急医を志すきっかけになった被災地への派遣
―――後期研修は東京に戻られました。
初期研修中に東日本大震災を経験したことがきっかけです。3月11日の震災発生から約1か月後、研修医の身分でありながらわがままを言って被災地への派遣チームに1週間参加させてもらいました。現場を、また自宅が倒壊し学校の体育館でストレスフルな暮らしに耐えている人々を目の当たりにしたとき、自分の無力さを突きつけられました。
それまで医師は人を助けることができる憧れの存在であり目標でしたが、被災地で医師が手助けできることはごく一部でしかありません。むしろお風呂を設置したり、道を作ったりしている自衛隊員の方が、よほど必要とされているのではないか、と感じました。もちろん、タイミングにもよるとは思いますが…。この経験を通して、医師は決して特別な存在ではないということを学んだように思います。同時に、大きな困難に直面した時に少しでも支えになれたらと、救急医を志すようになりました。そこで後期研修先として、症例が多く、救急分野に強く、また実際にお会いした先生の印象も含めて、東京の国立国際医療研究センターを選んだんです。
――救急医として臨んだ後期研修はいかがでしたか。
救急医療ってこんな感じかなという漠然としたイメージはありましたが、想像以上にハードでした。家に帰って寝るだけという修業のような3年間でしたね…。共に厳しい環境に耐え抜く同期の存在がなかったら、たぶん続かなかったと思います。ただ、その病院での経験は大きな財産となりました。中でも、3年目の自由選択期間に、国際医療協力局を選び、ラオスとボリビアに救急医として参加させてもらった経験が、MSF参加の足掛かりとなりました。
国立国際医療研究センターの国際医療協力局とは、海外の医療政策・公衆衛生を研究しつつ現場でも活動するという機関です。たとえば、ラオスはそもそも救急医療体制がなかったので、日本の救急の現状や臨床的なアプローチ方法を伝えるのが主な活動でした。重症患者を現地の医師と一緒に臨床したり、日本から救急医療チームを呼んで、症状のケース別に模擬訓練のワークショップを開いたりしたんです。ボリビアもまだ救急医という存在が生まれたばかりで、救急車が走り始めた頃だったので日本の救急医療の提供システムについて伝え、意見交換を行うなどしました。
この3ヶ月が、自分にもできることがあるという自信をくれました。実は初期研修中もわがままを言って、1カ月間の自由選択期間にボランティア団体を介してネパールの病院に行かせてもらっていたんです。でも当時は本当に何もできなくて、ただの見学者でしかなかった。そんな自分に海外でできることがあるんだろうかという不安は少なからずありました。でも、もちろん周囲のスタッフの協力があったからこそですが、ラオスやボリビアでの活動を通して、少しずつステップアップしているという手ごたえを得ました。その自信がMSF参加に向け自信をくれたように思います。
離島でトレーニングを積んで初ミッションへ
――その後、勤務先に沖縄県立八重山病院を選ばれたのはなぜなのでしょうか。
MSFに参加したいという思いがいよいよ高まっていましたが、そのためには救急医として専門医の資格を取得するだけでなく、あらゆる状況に対応できる幅広い知識・能力が必要です。
国立国際医療研究センターは医師の数がとても多く、科の体制も必要な設備も整っているので質の高い医療を患者さんに提供できます。しかし、限られたリソースでいかに対応するかというMSFでの役割や環境とは、だいぶ乖離がありました。他科のスペシャリストたちや最新の機器に守られていては、自分が求める能力を身につけることは難しい。そこで、僻地医療の経験を積もうと、大学の同期が行っていた離島の病院で働くことにしたんです。
――実際に働いてみて、どのような苦労がありましたか。
沖縄県立八重山病院は石垣島にある病院です。地域の中核病院で入院もできるし、血液検査やレントゲンといった設備もある程度整っています。しかし、専門性の高い治療は本島の病院にお願いせざるを得ません。また、近辺の小さな離島には十分な医療施設がないので、海上保安庁や自衛隊のヘリコプターを使った緊急搬送なども珍しくありませんでした。驚いたのは、輸血が足りず、必要になったら島民にアナウンスして血を集めるんです。現状でできる限りのことを頑張るしかない、という状況。一刻を争うような事態で専門的な処置が必要、という局面では無力感を覚えましたね。
ただ、おかげで必要な機材などがなくても他のもので代替する力は身につきました。たとえばチューブを入れたいけど専用のチューブがない、というときは、似たもので代用するしかありません。実際に使ってみて、「あ、これでもできちゃうんだ」と感じる場面は多かったです。経験を積むごとに、代替案を考えるスピードも速くなりましたね。また、「この病気はここでは診られない」と自分たちの限界を適切に判断する力も養われたように思います。
――八重山病院での経験を経て、MSF参加に必要な能力を着実に身につけていったんですね。2016年にはいよいよ初ミッションを経験されます。
はい。八重山病院では2年間の勤務という契約でしたが、1年目に救急医の専門医資格を取得できました。病院にも「MSFからオファーが来たら抜けます」と事前に話していたので、オファーをいただいたらすぐ参加しようと思って。2016年の6月にリビアへ派遣されることが決まり、まずはパリでミッションの内容の説明を受けました。しかし、「いよいよ明日出発」というタイミングで、まさかの事態が起きたんです。
(後編に続く)国境なき医師団(Médecins Sans Frontières 略称MSF)は、紛争や自然災害、貧困などによって命の危機に瀕している人びとに医療を提供する、非営利で民間の医療・人道援助団体。「独立・中立・公平」を原則とし、人種や政治、宗教にかかわらず援助を提供、医師や看護師をはじめとする海外派遣スタッフと現地スタッフの合計約4万5000人が、世界約70以上の国と地域で援助活動を行っています。1971年にフランスで医師とジャーナリストによって設立され、世界29ヵ国に事務局をもつ国際的な組織で、活動資金の95%以上は個人を中心とする民間からの寄付金に支えられています。
1999年にはノーベル平和賞を受賞。MSF日本は1992年に設立され、2017年には117人のスタッフを、のべ169回、29の国に派遣。現在も、活動に協力してくれる日本人医師を求めています。
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