医療政策とロマンと情熱。
「船が波止場に泊まっている。ここは港の小さな酒場。恋人との別れを悲しむ可愛い子が泣いている。『行かないで』。 涙にくれる娘を見て海に飛び込む恋に狂った色男。サメもびっくり仰天。 Mais, qu'est-ce que c'est?どこにでもある恋の話さ」
――Le navire est a quai Y a des tas de paquets Des paquets poses sur le quai Dans un petit troquet――(邦題『メケメケ』より)
粋な曲紹介の後、甘い声でシャンソンを披露するのは、社団法人全国社会保険協会連合会(以下、全社連)理事長の伊藤雅治氏だ。時に絶望的で、時に歓喜に満ち、時に滑稽で、時に淋しい。人の心の機微に向き合う情熱があって、初めてシャンソンの歌い手は務まる。
経営危機に直面した社会保険病院を、厚生年金病院、船員保険病院とひとつの病院団体としてまとめ、独立行政法人という受け皿を用意し、新たなスタートを切る土台づくりを成し遂げた人。強い心と決断力が無ければ、できないことだ。一方で、薬害エイズ訴訟をきっかけに患者の声に耳を傾け続けてきた。時に強靭で、時に繊細。そんな彼に情熱的なシャンソンはよく似合う。
厚生省時代の薬害エイズ訴訟
伊藤がシャンソンを歌う舞台は「はばたきミニコンサート」。日曜日の午後、ピアノ演奏、オペラ、シャンソンで構成されたコンサートを主催するのは「はばたき福祉事業団」(http://www.habatakifukushi.jp/)だ。
同事業団は1997年、薬害エイズ訴訟で和解が成立した後、被害者達が自ら救済活動を行うために設立された。
薬害エイズ訴訟――。厚生省(当時)が承認した非加熱製剤にHIVが混入し、結果、主に1982年から1985年にかけてこの血液製剤を治療に使った血友病患者の4割、約2,000人がHIVに感染した。エイズと呼ばれたHIV感染疾患は、当初は正体がわからず、被害者は生命の危機に瀕するに加え、いわれなき偏見により差別を受ける。
こうした状況の中、被害者と遺族の一部が立ち上がり、非加熱製剤の危険性を認識しながらも認可・販売した厚生省と、製薬企業5社とを被告にして損害賠償請求訴訟を起こした。事実を認めない被告を相手に訴訟は長引き、真相が明るみに出るのに7年もの時間を要す。まさに被害者にとっては命がけの訴訟だった。
原告団との交渉責任者に
コンサートの合間にはトークの時間が設けられていた。薬害エイズ訴訟時の弁護団のひとりと、はばたき事業団の理事長の間に伊藤が座り、訴訟が起こされた当時のことを振り返った。思い出したくない被害者もいるに違いない。だが、和解が成立しても残る、HIV医療体制の充実、遺族の心の癒し、薬害再発防止といった多くの課題解決には、被害者団体の設置・運営資金集め、さらに薬害エイズ事件の記憶を風化させないことが必要。ゆえに、定期的に開催するチャリティーコンサートでは必ず薬害エイズ訴訟について話されるという。
それにしても、まったく驚くべき光景である。なぜなら、薬害エイズ訴訟で裁判所から和解勧告が出された当時、厚生省で科学技術担当の審議官時代であった伊藤は、原告団との交渉責任者を務めていた。原告団にとって、いわば「敵の代表」。いくら彼がシャンソンを趣味にしているといえども、この舞台にいるのには違和感がある。
「東京地裁の和解勧告は、金銭的な補償について示されたものの、感染者に対する恒久的な医療体制の構築や生活の面のサポートなど具体的な事柄については、厚生省と原告団が話し合って決めなさいという内容でした。要するに丸投げ。そして、その大仕事が私に降ってきたのです。
ただただ、原告団の方のお話を聞き、一つひとつを丁寧に決めていきました。私にできるのは、お話を聞く以外にないと思いました」
退官後も継続した原告団との関係
「和解」は訴訟の結末を示すだけのことであって、被害者が厚生省を許したわけではない。許せるわけがない。原告団の行き場のない怒りや悲しみが、すべて伊藤に注がれたのは容易に想像される。しかし、どんな非難も辛抱強く受け入れ、ともに解決の道を模索した。
そのような姿勢が多くの原告の人々の脳裏に刻まれていたのだろう。彼が厚生労働省(以下、厚労省)を辞した後、エイズ治療・研究開発センター(当時、恒久医療対策により国立国際医療センター内に設立されたエイズ患者の治療・開発を行う専門機関)の運営委員になってほしいとのオファーがきたそうだ。「人徳ですね」と述べると、厳しく否定された。
「皆さんの話を聞いて、意見や要望に応えようとしただけです。私がエイズ治療・研究開発センターの委員に選ばれたのは、原告団と厚生省の和解時のことをよく覚えている存在だから。原点が忘れられないようにするためでしょう。
原告団の方々の力が、エイズ治療に果たした貢献は大きい。勇気ある行動に敬服するばかりです」
官僚にありがちなおごりなど微塵もない。なるほど、この舞台に、どうして伊藤の姿があるのか腑に落ちた。
医療費抑制による臨床現場の疲弊に疑問
シャンソンを始めたのは今から6年前。新聞記事がきっかけだったと話す。
「『中高年にシャンソンブーム』の記事が目に飛び込んできて、なんとなくひらめいたのです。紙面で紹介されていたプロのシャンソン歌手の長坂玲先生を訪ね、生徒となりレッスンをお願いしました。フランス語も歌もまったく初めて。シャンソンのレッスンと並行してフランス語と発声の勉強も必要でした(笑)」
恐れ入る行動力だ。容易にまねできない行動力については、他にもエピソードがある。2005年、全社連の理事長の職に就いたまま、東京大学に社会人講座として設けられた医療政策人材養成講座(HSP)の受講生となった。
厚労省にいたのだから、つまりは医療政策のプロだったはず。何も退官後に医療政策を学ぶ必要は無いように思えるが。
「高度成長期が終焉を迎え、さらにバブル経済がはじけ、国は財政難に陥り、増える医療費が大きな問題になっていきました。そして小泉政権以降、医療政策はトップダウンで医療費抑制に急激に傾いていったのです。私は政策をつくり、施行する立場にあって、日々疑問を膨らませました。なぜなら、その医療費抑制政策で医療の現場が疲弊していくのを目の当たりにしたからです。
肥大化する医療費を抑制する必要はある。しかし、実施されている抑制政策では日本の医療を崩壊に導いてしまう。どちらの道を行っても、国民に明るい将来はありません。いったい、どうしてなのかと考えました。そして行き着いたのが、医療政策の決定プロセスの見直しでした」
東京大学医療政策人材養成講座に応募
「厚労省の社会保障審議会、また医療部会や医療保険部会、中央社会保険医療協議会では、保険者と医師会、病院団体、看護協会など、医療提供側の発言力が大きい。病院や診療所のあり方をどうするか、医師教育体制、医療保険制度の改革方法、診療報酬の点数決定―ほとんどが医療提供側によって決められていました。
経済が潤っている状況では、それでも良かったのかもしれません。しかし財政がひっ迫すると同時に高齢社会に突入する日本では、医療費を誰が負担するかなどの医療政策は、もはや医療提供側の意見のみで決められるような性質のものではなくなっていた。だから繰り出される医療政策が迷走してしまったのです。
医療は、誰のものか。言うまでもありません。国民のためのものです。でも、医療政策を決めていく際のメンバーに患者代表や国民の代表が入っていませんでした。どう考えてもおかしいでしょう。さらに、政治はポピュリズムになびき、負担増を真正面から国民にお願いしない体質になっていきました。
私は、多くの医療政策がうまくいかないのは、主役となるべき国民の声を反映していないからだと確信しました」
忸怩たる思いは厚労省退官後も増大するばかり。医療政策を学び直し、医療政策の決定プロセスを変えるような活動をできないかとの思いが募っていった。そして伊藤は、HSPという格好の場所を見つけてしまったのだ。ひらめいたら、実現する。彼は好機を逃さない。
「医療の提供側や行政側だけでなく、医療提供を受ける側も政策決定プロセスに関与し、負担と給付の関係がバランス良く成立する着地点を見つけ出す。非常にまわりくどいようですが、そうした丁寧な政策決定の手順を踏んでいかないと、これから増えていく医療費を誰がどうやって負担していくかという合意形成など不可能。そんな問題意識からHSPの受講生となりました」
患者の声をいかにして反映させるか
異なるステークホルダーの、患者代表、医療提供者、メディア、政策決定者とともに1年間学び、共同研究をして卒業論文をまとめた。テーマは、「患者の声をいかに医療政策決定プロセスに反映させるか」。HSP2期生の中で優秀賞を受賞した。
もちろん、論文を書いただけで満足しない。卒業論文をもとに「患者の声を医療政策に反映させるあり方協議会」を創る。論文を読んだ患者団体から寄せられた多数の問い合わせに奮い立ち結成を決意したそうだ。
「政策立案に国民の代表を入れるとは、聞こえはいいですが、決して簡単ではありません。医療を受ける人や患者団体が医療を知り医療政策への理解を深めていかなければ、何を言っても『うるさい』と思われるだけです。
したがって本協議会では、患者団体と勉強会を行っています。患者が成熟した思考を持つようになれば、国に対して『ああしてくれ』、『こうしてくれ』と、ただ要求するだけでなく、『こういう部分に使われるのであれば、必ずしも負担増に対して反対しない』などの意見も出てくるでしょう。そうした議論が医療提供者と提供される側の間に生まれるようになってこそ、医療現場が疲弊しない政策が生まれる。国民が政策立案の場できちんとした発言ができるよう支援していく仕組みづくりが、きわめて重要です」
全院長を集めて議論に議論を
厚労省を退官後、2001年に全社連の副理事長に、2003年には理事長の職に就いた。表面の現象だけを見れば“天下り”と称されても致し方ないのかもしれないが、課せられたミッションを考えれば、天から地上を通り越し、地獄に送られたような人事だった。
「皆保険制度が始まり、保険料の強制的な徴収が始まりました。全国民から保険料をとるのですから、近くに病院がない状況は政策当事者として許されない。そこで、医療機関の少ない場所に政府管掌健康保険の保険者である社会保険庁が病院をつくった。これが社会保険病院のスタートでした。
けれども以降、病院数は急激に増え、そもそもの社会保険病院の存在意義は希薄になっていきました。財政難が加わり、社会保険病院には大きな課題が突きつけられました。
1.健康保険の保険料は、患者の給付のために使うもの。医療保険財政が赤字の中で社会保険病院の改築や土地、医療機器の購入のために使用するのはおかしい。
2.経営状況の良い病院と悪い病院のスタッフが、国家公務員の給与規定に準じ、まったく同じ給与を得るのは問題。
3.診療収入の3%を本部に納めさせ共同事業を行っているが、本当に必要性があるのか。
これらの課題を検証し、3ヵ年の経営改善計画を立て、最終的には、自立経営が可能な病院、自立経営は無理だが地域に必要な病院、その他の病院に分類。最初の2つに分類した病院は新たな経営形態に移行させ、その他の病院は売却先を探すとの施策を実行することになりました」
こんな難事業を、進んで引き受ける者などそうそうはいないだろう。指名を拒まなかった勇気は計り知れない。蛮勇にさえ見える。
病気とともに生きる人を支える「慢性疾患セルフマネジメントプログラム」(CDSMP)
伊藤は、おそらく厚生省時代に経験したエイズ患者の治療体制の充実の難しさを痛感した。そして、慢性疾患患者たちの生活の質の低さに目を背けられなくなったのだろう。日本慢性疾患セルフマネジメント協会(http://www.j-cdsm.org/)を創立し、理事長を務めている。
以下に同協会のホームページに掲載されている彼の挨拶文を紹介したい。慢性疾患の苦しみを実感できる人から投げかけられる言葉には、素朴だが、さすがに説得力がある。「ひとりでがんばり続けるのは大変」なのだ。
高齢化の進展や生活習慣の変化などによって、慢性疾患を持つ人が増えています。また、これまでは治療が難しかった病気でも、病気の解明や新薬の開発が進むことで、医療を受けながら社会生活を営んでいける人も増えてきています。
治らない、もしくは治りにくい病気になると、痛みや発熱、疲れやすいなどの症状に悩まされるだけでなく、仕事や家事を続けられなくなったり、将来への不安を感じたりと、日常生活にさまざまな影響が出てきます。
しかし医療の進歩に比較すると、日常生活で困っていることに対する支援は遅れがち。こうした現状にあって、医療のさらなる進歩が求められるのは当然ですが、同時に医療によって生命を救われた人の、その後の社会生活を支える取り組みこそ、強く進めていかなければいけないと考えています。
慢性疾患セルフマネジメントプログラム(CDSMP)は、慢性疾患を持つ人が自ら立ち上がり、自信と技術を持って生きていくことを支援するプログラムです。私達は、2005年からCDSMPを日本に導入し、慢性疾患を持って生きる人たちの支援活動を続けてきました。病気によって生じる問題には、一時の治療だけでは解決できないことがたくさんあって、ひとりでがんばり続けるのはとても大変です。私達はCDSMPを通じて、病気とともに生きる人が意欲と希望を持って人生を楽しんでいけるよう、皆さんとともに歩んでいきます。
決定プロセスの重要性を胸に
難関を乗り切るのに、もっとも簡単で有効だと考えられがちなトップダウンの方法はとらなかった。グループの全51病院(当時)の院長を一堂に集めてシビアな現実を説明し、到達地点も示して、プロセスを共有することを求めた。何かを決定するプロセスに、課題を抱える当事者を入れる重要性を知っていたからだろう。
「与えられたミッションをクリアするには、本部主導で『こうしなさい』と、単に決定方針を伝えるだけでは絶対にうまくいきません。グループが一丸となり、どういうかたちで現状に対応していくかを全院長に集まってもらい、3時間強にわたり議論に議論を重ね、最後は多数決。全員賛成で課題解決の道筋を見出せました」
来春には、社会保険病院、厚生年金病院、船員保険病院が独立行政法人に移行する時点で現職を離れる予定だ。いくつもの大仕事に向き合ってきた人の胸には、今どのような未来像が描かれているのか、聞かずにはいられなかった。
「なんの計画もありません。とりあえず『日本慢性疾患セルフマネジメント協会』(P3参照)の活動に力を入れていきたいと思っています」
いつも視線の先には患者がある。
実は冒頭、シャンソンが似合うと述べたが、初対面では、とても歌う姿を想像はできない。しかし、いったん彼の胸の内の情熱に触れれば、何故、シャンソンに惹かれたかがわかってくる。
コンサートの合間のトークが終了すると、伊藤が杖で体を支える、はばたき事業団理事長の大平勝美氏にさりげなく手を差し延べた。
この先、どんな立場に立とうとも、さりげなく患者に手を差し延べ、ともに生きていくのだろう。医療政策立案の渦中にあったとき、医師会や看護協会など医療提供者だけの意見を聞き、物事を決めてきたことを悔いる気持ちを胸に、患者の声を医療政策に反映させる道を探し続ける。
エムスリーキャリアは、より多くの選択肢を提供します

先生方が転職をする理由はさまざまです。
- 現状のキャリアや働き方へのご不安・ご不満
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