長文インタビュー

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

2014年1月9日

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

黒川清は、いったい何者なのか。
2013年4月、東京大学入学式の祝辞を「Carpe Diem」(ラテン語で「今日をつかむ」)と締めくくり、昨年7月、国会に設置された東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(以下、国会事故調)の委員長として「事故は人災」と断言。どの調査機関もたどり着けなかった事実を明らかにした。常にインパクトあるメッセージを発信する。
黒川清の今の肩書きは、政策研究大学院大学アカデミックフェロー、Health and Global Policy Institute代表理事、IMPACT Foundation Japan代表理事。かつては、東京大学医学部第一内科教授、東海大学医学部長、日本学術会議会長、そして内閣特別顧問であったこともある。このような立場で内閣官房入りした科学者は彼が初めてだそうだ。先に触れたが2012年、国会事故調の委員長に抜擢されたのは記憶に新しい。彼は、長期間アメリカにいてUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の教授だった。しかし、実力からすれば、世の中では格下と思われかねない東京大学医学部助教授のポストを甘んじて受け入れ帰国。
以降、前述したように実にさまざまな肩書きを持ち、医師と称するのがはばかれるほど、その枠をはるかに超えて活動をしている。 話し出したら止まらない。次から次へと言葉があふれる。あふれる言葉から、「考えよ」、「問いかけよ」との彼の心の声が聞こえる。全身全霊、人生を賭けて日本人の心と体を揺さぶろうと止まない黒川清とは、いったい何者なのか。

大学人事に対する反乱

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

1996年、黒川は東京大学(以下、東大)医学部第一内科教授の任期を1年余り残して東海大学医学部長に。発表されたのは同年3月、7月1日には新たな地への赴任という早業。医療界は騒然となった。そもそも東大から東海大学への異動が珍しく、また彼の経歴からすれば、ほかの選択肢もあったはずだ。

「僕がアメリカから帰ってきて何がいちばん気になったか。それは、学生はすばらしく優秀なのに、教える側の問題で、視野がきわめて狭くなっていること。日本の医学教育のレベルの低さです。30歳ぐらいになると活気がなくなり、このまま医局に残るか、関連病院勤務、開業でもしようかと二者、あるいは三者択一の狭い思考に陥ってしまう。

海外で活躍する、修行を積む、国内のへき地で医療貢献するなど、ほかにもたくさん選択肢がある。しかし、日本の大学教育の現場では、過去の人たちが、過去に教わったスタイルを学生に押しつけている。教育者は、学生や若い医師の一人ひとりに自分が何をしたいのか考えさせ、さまざまな選択肢があることを知らせるべき。そして、知らせるだけでなく、できれば自らやって見せれば、なお説得力があるでしょう。僕は既定路線を進むしかないと思い込んでいる学生や若い医師たちに、人生の選択肢の広さを、身をもって示したかったのです」

3ヵ月での異動は、周囲の妙な動きを封印した。

「東大の教授をしていると、定年間際に『どこそこの公的病院の院長就任はいかがですか?』などの打診がくる。案の定、そういう話が水面下でやってきてすごく困った。断ると、噂になり、厚生省や文部省(いずれも当時)関係者が、『あの人はもっと“格上”の病院をねらっているに違いない』、『どこかあてがあるのか?』。あっという間にいろいろな人のいろいろな憶測が、飛び交い始めちゃう。」

進みたい道に賭ける気概

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

「もともと僕は病院長になるつもりなど、まったくなかった。病院長は、ほかに多くの適任者がいる。僕でないとできない仕事ではないでしょう。

でも、不安でなかったとは言いません。断った時点で、行き先が決まっていたわけではありませんから。こっちがだめでも、あっちがある状態ではなく、こっちを断ったらほかの可能性も潰す事態につながりかねません。ただ、迷ったときには、可能性があるかないかは別として、進みたい道が拓けるほうに賭ける気概の有無は、人生のターニングポイントで大きな影響力を発揮します。決して楽観主義ではないですが、強い気概があれば、チャンスが訪れる確率は高くなる。自らの人生を振り返って得た経験則に身をゆだねようと思いました。

そのときに、とても重要なのが自分のボトムラインをどこに引くかです。どうしても譲れない、いかにしても守らねばならないボトムラインを決めておかないと、見栄や外聞に惑わされ、自らの人生を自ら決められないみっともない人生を送るはめになる」

黒川にはやりたいことがあった。帰国していちばん気になった医学教育の改革である。教育の改革をせずして、自分の帰国した意味はない。これがそのときの黒川のボトムラインだった。

ちらほらと彼の周辺がざわめき始めた矢先、東海大学から医学部長として迎えたいと青天の霹靂のような話が持ち上がる。運も実力のうち。黒川は見事に気概で運を引き寄せた。そして目に見えない「しばり」の力が働く前に黒川は即断し、辞任と就任を誰もが驚いている間にすべてを終了させる。

当時の東海大学病院は、経営状態が悪く、病院の経営改革が迫られていた。かたや東海大学は、他大学との差別化を図るべく、学士編入学枠を設けたり、ファカルティ・ディベロップメントを目的にした合宿を行うなど新しい大学・医学教育を取り入れようとしていた。つまり、医学部を変えようとしていたのである。

リスクのない人生はつまらない

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

黒川には、すでに一度、自らの人生においてボトムラインを決め大きな決断をした経験があった。

東大医学部を卒業し、内科医をめざして母校の内科学講座に籍を置き研鑽を積む途上の1969年、ペンシルバニア大学に留学したのを機にアメリカにいつづける道を選んだのだ。

「渡米後、担当教授のラスムッセン氏に初対面で言われました。『留学したのは君自身のため。君が独立した研究者になるためだ。自分で考え、自分の好きな研究をしてみなさい。』

衝撃でした。日本の大学ではついぞ聞かれない言葉に触発され、腎臓の細胞機能に関する研究に没頭、研究が面白く、帰国の期限を1年、また1年と先送りしました」

もうこれ以上延ばせないところまできて、なんと彼はアメリカを選ぶ。今なら評価する人もいるかもしれないが、当時は間 違いなくほとんどが呆れていたはず。医局の命に逆らうとは、日本での医療の道を捨てるのと同値だった。しかも、おとなしく教室の一員として業務をこなし、 論文を書いて忙しい毎日を送っていれば進路ができてくる。就職先の心配は不要。一方、日本での安定した生活に比較して、アメリカは激しい競争社会だ。年齢 も学閥も関係なく、ただひたすら、実力で勝負しなければ生き残れない。

「でも、僕は帰国しようとは思わなかった。不安は多くあったけれど、なんとなく合っていた。オープンでフェアだと感じ ました。年功序列、質ではなく数で評価される論文、学閥など、多くのしがらみに縛られて生きるより、己の実力ひとつでフェアに評価される世界を選んだので す。

頃合いを見計らって帰国し、どうせ大学はだめだろうから開業でもいいかと考えた瞬間もありました。けれど、日本に帰り周囲に『やっぱり』と思われるのは、どうしても嫌だった。それに、リスクを恐れていちゃ人生つまらないでしょう」

家族の生活を守ることがもっとも大切と自分のボトムラインを決め、腹をくくった黒川は、カリフォルニア州医師免許、 米国内科専門医、さらには米国内科腎臓専門医などとれるライセンスを次々と取得していった。そして、いわゆる“他流試合”を繰り返しながら1979年 UCLA内科教授へ上り詰めていく。

「高台にプールつきの家も買いました。休日に子どもたちとプールに入って、カリフォルニアの青い空に浮かぶ雲を見上げながら、『This is happiness』とつぶやいていましたね」

世界で高い評価を得た「国会事故調報告書」

2011年3月11日、未曾有の地震が東日本を襲い、津波と原発事故を発生させた。原発が世界中で増えつつある中で、今回の事故は日本だけの問題ではなく、世界的なイシュー。巨大な地震・津波によって引き起こされた原発事故とはいえ、世界第3位の経済大国、しかも科学と技術、エンジニアリング、製造業がすばらしいと認識されている日本で事故が起こった。だからこそ人々は驚愕し、世界中に大きなインパクトを与えたのだ。

しかし、日本では当事者である政府の事故調査機関はできても第三者の調査機関がつくられる気配はなかった。そして世界に対しても、十分で効果的な情報は発信されないまま。これでは日本に対する世界の信頼は失墜の一途をたどってしまう。黒川は訴える。

「一刻も早く、独立した国際的調査委員会を立ち上げるべき。たとえ日本にとって不利な事実が発覚しても、日本は隠しちゃいけない。原発事故の一連の経過をつまびらかにし、同様な事故が2度と起こらないよう、世界の英知を集め、世界に対する透明性を意識し、失敗を世界の原発開発や事故対策に生かそうとする積極的な姿勢を示すことが、日本の信頼を回復する唯一の手段だ」

さらに第三者の調査機関の国会設置を説く。

「日本の三権分立は、型はできているが、適正に機能していないと思います。日本の大部分の政策をつくっているのは行政府。では、執行するのはというと、やっぱり行政府。極論ですが、政策を好きなようにできてしまう。どう考えてもおかしい。司法と立法府の関係における1票の格差の問題もいい例でしょう。

本来であれば、国民の代表が集まる国会『国権の最高機関』が政策の決定をすべきですが、機能不全になっていた。社会でより大きな責任ある立場の『エリート』は1990年までの経済成長で傲慢にさえなっていたと思う。だから僕は、独立した調査機関の国会での設置を主張したわけです」

彼と同様の考えを持つ、また考えに同調する国会議員によって国会事故調が成立し、委員長に黒川が任命された。

たった6ヵ月間で調査して7つの提言までまとめ上げた国会事故調の功績と、その報告書は世界で絶大な評価を受け、黒川はAAAS Award for Scientific Freedom and Responsibility受賞(2012年)、Foreign Policy紙 100 Top Global Thinkers(2012年)に選出された。

一方、国内に目をやると、国会事故調とその報告書に対する反応は鈍い。海外と日本の評価のギャップ、まさに、これが彼の懸念するところだろう。

報告書を提出してほぼ9ヵ月目、ようやく報告書の提言の一部を受けて衆議院に設置された原子力問題調査特別委員会が開催にされ、黒川をはじめとする委員9名が参考人として招致され、意見の聴取と質疑が8時間にわたって行われた(参照:http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3856371/naiic.go.jp/index.html)。

予測できない変化を見せていくグローバル世界で、この報告書を受け取った日本はどこへ行こうとしているのか、福島原発をどうしようとしているのか、若者の将来はどうなるのか――。黒川の波打つ心中が、彼のオフィシャルブログからもうかがわれる。

*黒川清公式オフィシャルブログ: http://www.kiyoshikurokawa.com

すべてを投げ打って帰国

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

実力がフェアに評価されると言えば聞こえはいいが、要は熾烈な競争社会。医師のライセンスをとり、UCLAの教授の職を得るのが言葉に尽くし難い努力の賜物だったのは言うまでもない。そこまでして手に入れた地位や恵まれた収入を投げ打って帰国したのは――。

「帰国するつもりはありませんでした。というか帰国できないと思っていました。ところが、10年以上たって大学の恩師から『これからの東大に必要なのは、君のような人材だ』と懇願されたのです。首を縦に振るまでは帰らないとまでおっしゃっていただき固辞などできませんでした」

祖国は、黒川がアメリカを選んだとき、彼から目をそらせた。しかし、黒川は祖国から目が離せなくなった。海外生活が長引けば長引くほど、日本人であるとのアイデンティティが彼に迫ってきた。無意識のうちに「世界から見える」日本の存在が、とても気になるようになったのだろう。

ステップアップの途上で、アメリカ国内のいくつかの大学から「迎えたい」とのオファーがあったが、子どもたちに母国語を忘れてほしくないと、そのとき土曜日のわずかな時間帯に日本語のテレビ番組が放送されているという理由で、勤務先をロサンゼルスに限定した。

「帰国に際しては、UCLA教授から東大医学部助教授とポストも落ちました。プールつきの自宅から住宅事情の悪い東京に引っ越さねばなりませんでした。それでも1983年、僕は日本に戻りました」

独自の医学教育を展開

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

帰国して早々から黒川は、「いちばん気になった」教育に精力を注ぎ始める。アメリカで14年、海外の医学教育も熟知した教育者としての手腕は、東大の医学 教育の現場でいかんなく発揮されていく。学生の短期留学、アメリカ流の講義手法の導入、当時、ハーバード大学医学部で始まった新しい教育「New Pathway」をハーバード大学の教授と学生を招き東大の学生に1週間実体験させるコースを3年間つづけるなど、さまざまな独自の医学教育を展開した。

東海大学では、日米両国の医学教育を経験している彼ならではの教育改革を実行。中でも特筆すべきは、「外の世界」を実体験させるため、米英豪でのクラークシップを行う医学生の数をどんどん増やしていったことだ。

「インターネットも普及し始めていたので、リアルタイムの感想、感情などを感じたままにメールで送るように言い、学生からのメールには、最優先で返事を書きました」

■言葉のハンディがあり、とても苦労しますが、ものすごく勉強になるし、自分が先生やレジデントばかりでなく、看護師さんや患者さん含めてみんなに育てられているのを感じます。■毎朝7時から早朝プレゼンがあり(注:アメリカの多くの病院で、毎日教授の早朝回 診がある)、その準備に追われて2時間しか眠れない日々がつづいています。すごいプレッシャーだけれど、私が英語が下手なのは当たり前だと皆さんが思って いるし、「質問も恥ずかしがらずにしなさい。馬鹿な質問などない。馬鹿な答えはあるかもしれないから(笑)、どんどん質問しなさい」と先生たちが励まして くれます。
「海外で勉強する医学生から送られてくる、学生たちに共通の感想は、『厳しいけれ ど、優しい』、『自分の成長を実感する』。アメリカのレジデントの生活は日本の研修医の厳しさの比ではありません。非常に厳しい環境の中にあっても、優し さを受け止める感性を持ち、英語のハンディを超えながら学生たちが急速に成長していく様子がはっきりと感じられるメールには大いに感動しました。いくつも の面白いストーリーに返事を書くのは、楽しかった。

若い医師の方々には、ぜひ一度でも海外で修行をしていただきたいと切に願います。 僕が海外留学をすすめてばかりいるので、アメリカの医療を全面的に賞賛していると誤解されている方々も少なくないようですが、大きな間違い。外から日本を 見る実体験、日本の医療と比較する対象を持つ機会をつくるのは、僕らの世代がやらねばならない義務です」

「若者の将来をつくってあげないと」――黒川の表情が一瞬、引き締まった。

一歩引いて思いをめぐらす

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

「ひとつ例を挙げれば、日本の医療を自分の立場から考える。それから、日本の国から、アジア、世界へと、考える視野を広げていく。医療は人の幸福に深くかかわる事柄。だから、医師は決して狭い視野で医療を考えてはならない。さらに時間軸。あなたが今、医療に関して持っている考えは5~10年先でも人々を『なるほど』と納得させられるか、思いをめぐらせてはどうか。

これから先、我々を取り巻く環境の変化は、だいたい予想できます。高齢化が進み、患者の大多数が慢性疾患の高齢者になる。公的資金は限界。そうした将来にあって、今の自分の立場、今の時間から一歩引き、自分がどんな医療者になっていたいのかを考えてほしい。

医療不安が巷にあふれていますが、みんなが一歩引いた視点を持ち、視野を広げていけば、解決すべき課題のプライオリティが現在のものとは変わってきて、軌道修正できるでしょう。僕も、このままでは日本の医療は崩壊すると予測します」

外から自分を見る

読者諸氏にはすでにおわかりのように、一歩引いた視点を持つのに有効な物理的な手段のひとつが、黒川が再三口にする海外への留学などの実体験。彼はよく若い人に質問をする。「あなたは、自分の顔を見たことある?」。「たいていは、『鏡で見ています』と答える。でも、鏡に映るのは左右反対。それを意識している人が何人いるでしょう。録音した自分の声を聞くと驚きませんか。『これが私の声?いつも聞いている声と全然違う』。でも、それが、他人が聞いているあなたの声。同様に、あなたが今、言っていることは、自分で意図して発する言葉と全然違う響きをしています。

他人が見る自分の顔、聞く声、受け止める言葉――他人から見える自分を知るのを可能にするのが、つまり海外に出ることです。外に出ると、日本人の自分、自身がしたい何かに出会う機会に多く恵まれる。日本での常識が、とんでもない非常識なものとして胸に迫ってくるかもしれません。さらに、日本が今までより大きな視点で見えるようになるのです」

教育にこだわるのは「恩返し」

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

仕事部屋の壁一面は本棚になっている。びっしりと並ぶ書籍は科学者らしくなく、さまざまな国家の歴史書、文明書、人物伝などが半分を占めていた。

「よく言うじゃない、賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶと。日本の医学教育では、教育者が己の経験ばかりを重視する傾向にあり、一人ひとりの学生の自分の『強さ』と『弱さ』を感じとる感性が薄くなっていると思います。日本の政治も、役所も、企業も同様の側面を持っている。

どんなディシジョンをするときでも、ディシジョンの軸がどれほどの歴史の時間のスパンの延長線上にあるのか、世界のどれくらいのドメインを想定しているのかを直感できる、これがきわめて大事。日本人が苦手とする思考かもしれませんね。でも、将来を背負う若い人たちに、そうした思考ができるように行動し、共有し、教えていくのが、教育者の重要なミッションでしょう」

黒川が教育にこだわるのには、「恩返し」の意味も強い。アメリカ滞在時代、国境を超え、人種を超え、自分に多様なキャリアを示しつつサポートしてくれた数々の人たち、そして先輩、同僚、研修医、学生たち。

「教えてもらっているときには意識しませんでした。帰国し、初めてどんなにすばらしい教育とオープンな評価のある環境にいたかに気がついた。

若者の可能性を伸ばそうとする教育者がいて、それぞれの若者の才能が、どんどん開花していく。開花させてもらった人間は、その教育の実体験をもとにして、次には若者の才能を開花させる側にまわる。時を超え、連続して若者の可能性が伸ばされる好循環が生まれているのです。僕は幸運にも、その好循環の中にいる時期を持てました。だから僕が自分の実体験を背景に若い人の教育に臨むのは、ある意味、使命なのです」

今度は自分の番――「育ててもらった」との深い感謝の念に突き動かされ、「出る杭は打たれる」日本の教育風土の中で奮闘する。

積み重ねられる肩書き

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

「医局から離れて退路を断ち、長期の海外在住を経て帰国すると、ギクシャクする場面も多々ありました。けれど多くの方々が支援くださり今にいたります。

高度成長期を経て、日本は謙虚さを忘れてしまったような振る舞いを世界で繰り返していました。外にいて、日本のあり様にはみっともなく情けない面もあった。このままでは、若い人があまりにかわいそう。

そこで立場も考えず、帰国直後からワアワア言い出しました(笑)。日本に帰って30年近くなりますが、僕の言っていることは一貫している。世界から日本を見よう、若い人には武者修行を。

でも、口先だけでは、人は信用してくれません。僕は、自分の考えというか想いをもとに行動し、独立した精神にもとづく生き様を若者に見せ、言うべきことを言ってきたつもりです」

有言実行。しがらみに流されない黒川の姿は、多くの日本人には、“やんちゃ”に見えたかもしれないが、若者やものの言えない心ある人々には、“いちるの望み”と映る。

国家レベルのテーマにも終始一貫した姿勢で恐れを知らずに主張しつづける黒川。存在は、ジワジワと大きくなり、脳裏に残っていく。必然的に、大事が起こると彼の存在を誰かが思い出す、希望を持って――。おそらくは、黒川は無意識のうちに、自分を推してくれる人に支えられているのを理解し、彼らの期待を踏みにじってはならない使命感と、日本がわずかでも前進してくれることを願って、あえて火中の栗を拾う。そして、医師の枠を超えた肩書きが、代わる代わるつく結果となったのであろう。

メインの取材場所は、政策研究大学院大学。取材陣を先導して、同大の階段を駆け上がっていく後ろ姿を見ながら、彼に追いつく人材が現れてほしいと心底願った。誰よりも彼自身が、それを願って走りつづけているのが痛いほど伝わってくる。

さて、黒川清はいったい何者か。救世主に決まった肩書きはいらない。

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

黒川 清
くろかわ きよし
政策研究大学院大学アカデミックフェロー
Health and Global Policy Institute 代表理事
IMPACT Foundation Japan 代表理事

1962年 東京大学医学部卒業
1963年 東京大学医学部第一内科/医学研究科大学院
1967年 医学博士、虎ノ門病院へ出向
1968年 東京大学医学部第一内科助手
1969年 ペンシルバニア大学医学部生化学助手
1971年 UCLA(University of California at Los Angeles)医学部内科上級研究員
1973年 UCLA医学部Assistant Professor of Medicine
1974年 USC(University of Southern California)医学部Associate Professor of Medicine
1977年 UCLA医学部Associate Professor of Medicine
1979年 UCLA医学部Professor of Medicine
1983年 東京大学医学部第四内科助教授
1989年 東京大学医学部第一内科教授
1996年 東海大学教授、医学部長
1997年 東京大学名誉教授
2002年 東海大学教授/総合医学研究所長
2003年 日本学術会議会長、内閣府総合科学技術会議議員
2004年 東京大学先端科学技術研究センター教授(客員)、東海大学総合科学技術研究所教授
2005年 Health and Global Policy Institute(日本医療政策機構)代表理事
2006年 内閣官房内閣特別顧問、政策研究大学院大学教授
2010年 政策研究大学院大学アカデミックフェロー、IMPACT Foundation Japan代表理事
2012年 国会の新法による東京電力福島原子力発電所事故調査委員会委員長

【受賞】

紫綬褒章(1999年)/財団法人腎研究会特別功労賞(2000年度)/フランス王国よりレジオンドヌール勲章シュバリエ(2009年)/
在日米国商工会議所Person of the Year 2010/旭日重光章(2011年)/AAAS Award for Scientific Freedom and Responsibility受賞(2012年)/
Foreign Policy紙 100 Top Global Thinkersに選出(2012年)

【海外での主な学会、委員活動歴】

Elected member of American Society for Clinical Investigation/ Association of American Physicians/ American College of Physicians(Master)/
Institute of Medicine of the National Academies of Science, USA/ InterAcademy Council/ Committee for Science Policy and Review of the International Council of Science (ICSU); President of International Society of Nephrology/ Pacific Science Association/ Science Council of Asia; Commissioner of World Health Organization; Board Member of Bibiotheca Alexandria, Egypt/ Agency for Science, Technology and Research(A*STAR), Singapore/ Khalifa University of Science, Technology and Research(KUSTAR), Abu Dhabi, UAE/Okinawa Institute of Science and Technology(OIST)
Member of President’s Council of New York Academy of Sciences/ United Nations University Honorary Advisory Committee/ Global Science and Innovation Advisory Council(GSIAC)to the Prime Minister of Malaysia

エムスリーキャリアは、より多くの選択肢を提供します

先生方が転職をする理由はさまざまです。

  • 現状のキャリアや働き方へのご不安・ご不満
  • ご家庭の事情や、ご自身の体力面などの事情
  • キャリアアップ、新しいことへの挑戦
  • 夢の実現に向けた準備

など、多様なニーズに応えるために、エムスリーキャリアでは全国から1万件以上の求人を預かり、コンサルタントは常に医療界のトレンド情報を収集。より多くの選択肢を提供し、医師が納得のいく転職を実現しています。

転職すべきかどうかも含め、ご相談を承っています。

この記事の関連キーワード

  1. キャリア事例
  2. 長文インタビュー

この記事の関連記事

  • 長文インタビュー

    医師インタビュー企画 Vol.21 名知仁子

    ミャンマーの医療に全力を捧げる医師・名知仁子。巡回診療、保健衛生指導、家庭菜園指導の3つの活動を通して、ミャンマー人の健康を支える名知仁子。大学病院、国境なき医師団といった最前線の経験を経て行き着いたのは、日常生活からの自立支援だった。とはいえ、名知ははじめから崇高な目標を持っていたわけではない。人生プランに国際医療が加わったのは30歳過ぎ、海外の地に降り立ったのは39歳のときだった。途中、乳がんなどを患いながらも医師として走り続ける理由とは――。

  • 長文インタビュー

    医師インタビュー企画 Vol.20 吉田穂波

    「女性は子どもを産むと戦力外?」当時の前提に疑問を抱いた女性医師「子どもを産むと仕事ができなくなる」のは本当か。

  • 長文インタビュー

    医師インタビュー企画 Vol.19 髙橋昭彦

    障がいを持つかどうかは確率の問題。たまたま障がいを持つ人とその家族が、なぜこんなにも苦しまなければならないのか――。この思いを出発点に2002年から栃木県宇都宮市で「医療的ケア児」と呼ばれる子どもたちを対象にした在宅医療、家族支援をしているのが髙橋昭彦だ。その取り組みが認められ、2016年には日本医師会「赤ひげ大賞」を受賞。採算度外視で我が道を行く髙橋だが、40歳を迎えるまでは自身の生き方に悩んでいたという。髙橋のキャリアを突き動かした出来事とは。

  • 長文インタビュー

    医師インタビュー企画 Vol.18 加藤寛幸

    紛争地帯や災害地域で危機に瀕した人々への緊急医療援助を展開する「国境なき医師団」。その日本事務局会長として、途上国での医療活動に身を投じているのが加藤寛幸だ。医師としてこれまで9回にわたり援助活動に参加してきた加藤。途上国医療の光も闇も目の当たりし、挫折を繰り返してなお活動に身を投じ続けるのには、わけがある。

  • 長文インタビュー

    医師インタビュー企画 Vol.17 山本雄士

    臨床の第一線を離れ、起業家として医療への貢献の道を探る医師がいる。山本雄士、日本人医師で初めてハーバード・ビジネススクールでMBA(経営学修士)を取得し、2011年に予防医療ビジネスを展開する株式会社ミナケアを創業した人物だ。日本ではまだ発展途上とも言える予防医療の領域に力を入れる山本。そのルーツは、臨床現場で感じた素朴な思いなのだという。

  • 長文インタビュー

    医師インタビュー企画 Vol.16 志水太郎

    東京都江東区の東京城東病院(130床)。同院には、異例の人気を誇る後期研修プログラムが存在する。立ち上げたのは、若くして日本・アメリカ・カザフスタンで医学教育に携わってきた志水太郎だ。志水のノウハウをまとめた著作『愛され指導医になろうぜ』(日本医事新報社)は現在、後進指導に悩む指導医のバイブルとして親しまれている。30代という若さにして、華々しい実績を残しているように見える志水。しかしその裏には、数々の挫折があった。

  • 長文インタビュー

    医師インタビュー企画 Vol.15 新村浩明

    「これ以上の極限状態はないと思った」。東日本大震災が起こった2011年3月を、ときわ会常磐病院(福島県いわき市、240床)の院長代行、新村浩明はこう振り返る。あれから数年、被災地の医療が新たな局面を迎えた今、新村には、この病院で成し遂げたいことがあるという。

  • 長文インタビュー

    医師インタビュー企画 Vol.14 林祥史

    カンボジアに日本発の救命救急センターが設立されようとしている。2016年1月からの稼働を目指してプロジェクトを推し進めているのが、林祥史だ。34歳という若さで、北原国際病院の血管内治療部長として診療を続けながら、株式企業KMSI取締役としてカンボジアプロジェクトの指揮を執る。日本式医療を海外に輸出しようとする、その原動力とは―。

  • 長文インタビュー

    医師インタビュー企画 Vol.13 渡邊剛

    「日本の心臓外科医療を立て直す」ために新病院を立ち上げたニューハート・ワタナベ国際病院・渡邊剛総長を特集。心臓外科手術の成功率99.5%を実現し、大学教授にまでなった渡邊総長がいま、大学を飛び出し、新病院を立ち上げた背景とは?渡邊総長の医療、心臓外科、そしてダ・ヴィンチ手術にかける想いを聞いた。

  • 長文インタビュー

    医師インタビュー企画 Vol.12 佐藤賢治

    「“仮想”佐渡島病院構想」に挑戦する佐藤賢治。日本海沿岸に位置する、新潟県の佐渡島。過疎化・高齢化や医療者不足といった、地域医療に共通する課題の先進地域であるこの離島で、2013年4月から、あるプロジェクトが動き出した。

  • 人気記事ランキング

    この記事を見た方におすすめの求人

    常勤求人をもっと見る