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同級生が皆専門医に…残された医師の決断―医師と2足のわらじvol.8

2019年1月21日

医師とマジシャンという、一風変わった2足の草鞋を履いてキャリアを歩んでいるのが、平野井啓一先生です。現在、ファーストリテイリングをはじめとする20社もの企業で嘱託産業医として働く傍らで、メディカル・マジック・ジャパンという法人を立ち上げ、産業医とマジシャンを紹介する事業にも取り組んでいます。産業医・マジシャンとして精力的に働く、キャリアの変遷について聞きました。

図書館で出会った一冊の本が、人生を変えた

――医師でマジシャンというのは、かなり異色のキャリアですね。昔から、マジックには親しまれていたのでしょうか。

マジックに出会ったのは、浪人時代。当時、勉強が本当につらくて…通っていた図書館にあったマジックの専門書にハマってしまいまして(笑)。受験勉強から逃げたい一心でマジックに夢中になりました。気づけば、勉強よりもマジックの練習にばかり時間を割いていました。医学部受験も3度失敗。3浪してもダメなら、本気でマジシャンになろうと考えていましたが、4度目の正直で、なんとか秋田大学に入学しました。医学部に入ってからも独学でマジックを学び続け、友人に披露しているような学生でした。

――マジックのどんなところに、それほどの魅力を感じたのでしょうか。

もともとマジックは好きで、テレビで見たり、人前で簡単なものを披露したりする機会もありました。前述の浪人生時代、図書館で読んだ本に書いてあったマジックを自分なりに覚えて母親に披露したら、驚いてくれて――。今振り返ると大したマジックではなかったのですが、当時の私はそれがすごくうれしかった。以降マジックに病みつきになりました。結果浪人を重ねてしまったので、両親には本当に申し訳ない気持ちですが…。

――医師になってからは、どのようにして過ごされたのでしょうか。

私のキャリアは医学生時代に親の会社が倒産してしまった関係で、経済的な事情による影響が大きいです。学費を工面するために奨学金を借りていたこともあり、初期研修・内科の後期研修は宮城厚生協会の系列病院で受けました。後期研修を終えた後も家族を養わなければならなかったため、その後の研修を一時中断。関東に出て、健康診断と救急当直のアルバイトを繰り返す毎日となりました。稼ぐ事に集中したため2年後の32歳ころには経済的に落ち着いてきました。しかしそれと同時に自分の中に少しずつ焦りも生まれてきました。同級生はみな専門医を取り始めて立派に活躍している。一方自分には確たる専門性も構築できていないのではないか、と。

――そこから、現在のご専門である産業医学の道へと進まれたのですね。

そうです。ただすぐに見出せたわけではありません。
当時「今の自分にでも取れるような資格はないか」と考えた末にたどり着いたのが、日本内科学会認定医と日本医師会の認定産業医資格だったというくらいで――。

認定産業医は講習を受け、一定の単位を集めると取得すること出来ます。正直資格さえ取れれば良いと思い受講しました。しかし講義の中で浜口伝博先生(現産業医科大学教授)のお話を聞き、私の人生は変わりました。浜口先生は、「病気になった人を直すのも医者の仕事だが、働いている人が仕事で病気にならないようにするのも医者の仕事」とおっしゃっていました。「自分が求めていたのは、これじゃないか?」と強く思ったことを覚えています。もともと患者さんと話したり、健康相談に応じたりするのが大好きな私にとっては、「自分の天職ではないか!」と思ってしまったのですね。今思うと、勘違いだった部分もあるのかもしれません。でも、自分のキャリアに初めて、実現したいと思える目標ができた瞬間でした。

――そこから、産業医学の道へとのめりこんでいった。

はい。しかし、産業医としてキャリアをスタートさせる事はそう簡単ではありませんでした。

そもそも、産業医を募集している企業が少なかったですし、面接を受けても、未経験の私を採用してくれる企業もなかなか見つからなかった。何社も何社も受けては落ち、ようやく、嘱託産業医として働かせてくれる会社を見つけたのは、求職活動を始めて半年が経過した頃です。

――産業医になるのも、そう簡単ではなかったのですね。

そうですね。ゼロからスタートするのは、なかなか大変でした。
その後契約企業を増やし、何とか生活を成り立たせる事が出来るようになりました。しかし一通りのことは卒なくできるものの、「本当にこのままでいいのか、今やっていることは 産業医として正しいのだろうか?」という思いが強くなり、私はまた行き詰ってしまったのです。医学的な判断はできたとしても、法律や、行政の動きなど、まだまだ知識が足りない部分があった。一方でそれを誰かに教えてもらえるような環境でもありませんでした。どうしようか考えあぐねていた時、手を差し伸べてくれたのが浜口先生でした。すぐに先生に弟子入りし、産業医学の基本を叩きこんでもらいました。ご指導のおかげで労働衛生コンサルタント、作業環境測定士等の国家資格も順調に取得。2016年には日本産業衛生学会専門医を取ることができました。現在は、法人を立ち上げ20社の企業と嘱託産業医として契約し、日々活動しています。

マジシャンに弟子入りして、基礎を叩き直す


――一方で、マジシャンとしての活動は、どのように進めていらっしゃったのでしょうか。

産業医と同じようにあるマジシャンの方に弟子入りしました。10数年ずっと独学でやってきた私が師匠と出会ったのは関東に出てきた2年後の2011年です。師匠は当時お蕎麦屋さんとマジシャンという2足の草鞋を履いている方でした。マジックの世界では大変高名な方で、私が10年かかりでもできないような技法をいともたやすくやっていらっしゃって。それを目の当たりにしてから、毎日足しげくそのお蕎麦屋さんに通いました。そして弟子入りさせてもらい、仕事終わるとご指導を賜る毎日を送っていました。

――マジシャンの師匠からは、どんな教えを受けたのですか。

それまで私は、カードを使ったマジックばかり練習していました。それに対し師匠に言われたのは、「ロープやコインなど、あらゆる種類のマジックを一通り覚えると、それぞれの知識がつながって、スキルが向上し演技の幅も広がる」ということ。そこで師匠から苦手だったロープやコインマジックを基礎から徹底的に教えてもらいました。はじめは本当に苦労しましたが、確かに、ある程度練習を積み重ねていくと、一見つながりがなさそうなそれぞれのマジックが線でつながるような瞬間があり、驚きました。
スキルが上がるにつれ、ステージマジックを披露する機会も増え、徐々にではありますがマジシャンとしての活動も増えていきました。

――現在は、メディカル・マジック・ジャパンという法人も立ち上げていらっしゃいます。こちらでは、どのような活動をされているのでしょうか。

メディカル・マジック・ジャパンは、医療とマジックを日本でやっているというシンプルな意味の社名です。法人ではありますが、産業医もマジシャンも、私一人です。現在は20社と契約を結んで嘱託産業医として活動しているほか、マジシャンとして月1回~繁忙期になると月10回以上、マジックショーを開いている状況です。マジックショーを依頼してくれるのは、個人的につながりのある団体の方、それから産業医活動をしている企業であることが多いですね。社員のご家族を招いてのパーティや、忘年会シーズンなどにお声がけいただくケースが多くなっています。

マジックで学んだ精神生かして「一流の産業医」に

――医師とマジシャン、両者をかけ持つことによる相乗効果はありますか。

それはもう、大いにあります。

たとえば、産業医として社員の方に衛生講話をする場面。中にはあまり積極的に参加されていない方もいらっしゃいます。そのような方に決まったフォーマットのお話しをしても聞いてくれないし、入眠されてしまいます。聴衆は今どんな気持ちなのか、話を聞いてもらうためにはどんな風に話し盛り上げたらよいか――そういった想像力は、マジシャンとして活動し続けてきたからこそ身についたものだと考えています。今後もこの強みをもっともっと伸ばしていきたいと思ってします。

――今後の先生の展望について聞かせてください。

一つは後進の産業医の先生の育成です。産業医をやりたいと思っているけれど、どうしたら良いか分からない、どうやって勉強したら良いか分からないという相談をよく受けます。私自身も先ほどお話したように始めはとても苦労しました。このような実情を踏まえ、来年4月から浜口先生が産業医と育成、認定する団体を立ち上げます。しっかりとした実践力を身に付け、企業に訪問した際に一定のレベル以上の仕事が出来るようになる産業医を増やしていきたいという趣旨で研修を開始します。参加者にはイーラーニングによる授業、ZOOMシステムを用いた同時参加型の研修を受けていただき、最後に認定試験に合格すると実践力をもった産業医であると認定される流れです。私も立ち上げメンバーの一員として授業、研修の講師を担当させていただく予定です。もし産業医を真剣にやっているが困っている方がいたらぜひ受講をお勧めします。

二つ目は企業研修です。特に力を入れているのは企業のラインケア研修です。上司を部下とどのように接し、メンタル不調者を出さないようにするか。これは医学的な観点のみでは限界があります。起こった疾病に対しては臨床医学が活きますが、予防の点では医学のみならず他分野の知識が有機的につながる事が必要だと思います。来年日本アンガーマネジメント協会の認定ファシリテーターを取得し感情のコントロールについて学ぶ予定のほか、「日本ほめる達人協会」という団体が主催している「ほめ検定」にも今年から挑戦しており、来年は認定講師を取得するのを目標にしています。しっかりとしたビジョンを持ちつつ感情のコントロールが出来て、褒めるのが上手な上司の方が増えたら素敵な会社になると思いませんか?

――企業の中間管理職の方への研修とは、産業医としてもかなり踏み込んだアプローチですね。

そうかもしれません。でも、法律で定められたことをこなすだけでは、不十分だと思うんです。これは、産業医としての師匠である浜口先生のお言葉ですが、「三流の産業医は法律で決められた範囲の仕事をする」「二流の産業医は法律で決められたこと以外でも、会社の問題に気付いて解決していく」。そして、「一流の産業医は、会社そのもの組織そのものを変えていく」。まだまだ私の腕前では「一流の産業医」には及びませんが、少しでもこの理想像に近づけるよう、努力を重ねたい。そのために大切なのは、マジックで学んできた、相手の気持ちを慮る精神だと思っています。これからも産業医活動とマジシャン、両方に力を入れて、自分にしかできない貢献の方法を探っていきたいですね。

【提供:m3.com Doctors LIFESTYLE

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