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医療の情報格差を「漫画」で補う―医師と2足のわらじvol.5(前編)

2018年12月26日


内視鏡のエキスパートとして複数の医療機関で働きながら、特技の漫画を駆使して一般の方に正しい医療情報をわかりやすく伝えている近藤慎太郎先生。前編では、漫画家になる夢を持ちながら医学の道に進んだ経緯などについて伺いました。(取材日:2018年11月8日)

夢は漫画家だが、医師にも魅力を感じた

-ご自身で描いた漫画を用いて医療情報を伝える著書が評判を呼んでいる近藤慎太郎先生。現在、医師そして漫画家としてご活躍されていますが、幼い頃になりたかった職業とは。

小学生のころから漫画家になりたいと思っていました。中学・高校時代にはSF漫画を描いて、週刊少年ジャンプと月刊少年ジャンプ(当時)が主催する手塚賞に3回くらい投稿しました。当時の作品はいろんな漫画の寄せ集めだったので、今思えば通るわけがなかったと思います。

-漫画家になる夢を持ちながらも、医学部に進んだのはなぜですか。

漫画家になりたい一方で、医師という職業にも同じくらい興味があったんです。というのも、医師志望だった父にその道を勧められていたこと、叔父が医師として働いていたからです。
漫画を投稿しても編集部から連絡が来るわけではないし、漫画家は夢であっても自分の職業として現実的ではないことはわかっていました。高校時代に、父の友人から「医者は2回人生を生きられる」、「医者になれば後から自分がやりたいこともできるよ」と言われたことにも影響を受けていますね。何より、産まれてから死ぬときまで、常に誰かから必要とされる魅力的な仕事だと感じていました。

-中・高時代同様、大学時代も漫画を描いていたのでしょうか。

部活、アルバイト、ボランティアなどで忙しかったこともあって、大学時代はほとんど描いていませんでした。けれども、いずれプロの漫画家になりたいという夢は持ち続けていたし、漫画のアイデアを思いついたらメモしていましたね。当時は「今は部屋にこもって漫画を描くよりも、いろんな経験を積む時期だ」と思っていたこともあります。仮に漫画家になれても、社会のことを知らなければ続かないとも考えていました。

1998年に北海道大学を卒業後、東京の日本赤十字医療センターで研修医、勤務医としてお世話になりました。消化器内科を選んだのは、叔父がその科目だった影響もあったかもしれません。もともと内視鏡が好きだったこと、消化器内科として止血ができないと不安だと思ったこともあり、研修医のころから「内視鏡のスペシャリスト」を目指そうと思っていました。その後、視野を広げるために2002年に東京大学の大学院に入って研さんを積みました。それと同時に、漫画を描くことを再開したのです。

難しい医療の話をわかりやすく伝えるには


―なぜでしょうか。

漫画家を目指すのであれば、何かしら行動しないと年齢的にもそろそろ厳しいと思ったからです。いろいろ忙しかったのですが、研修医ほど拘束されませんし、時間をつくって漫画を描くことを自分に課しました。出版社に持ち込みをするようになったのは、30代後半のとき。今とは違って、SFやミステリーを描いては小学館の「ビッグコミック」や「ビッグコミックオリジナル」の方に読んでもらっていました。掲載には至りませんでしたが、編集者に「描き続けてください」と言われて、少し自信も出てきましたね。
「片手間で医療をしている」と思われたくなかったので、職場では漫画を描いていることは一切話さなかったですね。漫画家としてデビューできたとしても、好きでやってきた医師という仕事を辞めるという選択肢はありませんでした。

-SF・ミステリーから離れて、現在のような医療系漫画を描き始めた経緯を教えてください。

医師と漫画家を両立させる方法を考えたとき、最初の第一歩として「漫画で医療の話を描くこと」が一番スムーズかつ無理がないと思ったためです。
わたしは昔から「わかりにくい話」が大嫌いなんです。高校時代は授業がつまらなくて、最後まで話をきちんと聞くことができなかった。ところが、浪人時代に駿台予備校で秋山仁先生のようなカリスマ講師に習うと、面白い話は聞くことができ、理解できることに気付きました。それ以来、わたしにとって「わかりやすく説明すること」がすごく大切なことになっているんです。
医療の説明は、患者さんにきちんとわかってもらえなければ意味がありません。医師として一般の方に接するたびに、医療の情報格差がとても大きいことに問題意識を持ち、「漫画を使えば、難しい医療の話もわかりやすく説明できるのではないか」と考えるようになりました。もともと持っていた漫画を描きたいという気持ちに、このような問題意識が重なって、今のスタイルができたのです。ちなみに、SF・ミステリー時代とは絵柄も違います。今は余白を多くして学習マンガ的なテイストも入れた、わかりやすさ優先の絵柄にしています。

―医療系漫画を描き始めてから、何か変化はありましたか。

まず、勤務医からフリーランスになったこと。いろいろな所から「来てくれないか」というお話はいただいたのですが、漫画や文章を書くためには、どうしても時間的な余裕が必要で――。会議が長引いたり夜中に呼び出されたりすると、執筆の時間が取れません。一生フリーランスでやっていくかどうかはわかりませんが、「医師・漫画家」という2足のわらじのスタイルを確立するまでは、フリーランスでやっていこうと思ったんです。

近藤 慎太郎
内視鏡専門医 / 漫画家

1972年、東京都生まれ。北海道大学医学部、東京大学医学部医学系大学院卒業。山王メディカルセンター内視鏡室長、クリントエグゼクリニック院長などを経て、2016年からフリーランスに。年間2000件以上の内視鏡検査・治療を手がける。著書に『がんで助かる人、助からない人』(旬報社)、『医者がマンガで教える 日本一まっとうながん検診の受け方、使い方』(日経BP社)がある。

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