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「立ち上がらなければ始まらない」30代で急きょ開業した若手医師の思い―田中公孝氏(ぴあ訪問クリニック三鷹)

2017年9月27日

医師にとって大きな決断である、開業。田中公孝氏は33歳という若さで東京都三鷹市にクリニックを開設し、家庭医としての経験を活かしながら地域の高齢者が幸せに暮らせる環境づくりに着手し始めました。経営ノウハウも全くゼロの状態からスタートし、想定外の出来事にも数多く見舞われたという田中氏。それでも自分らしく地域医療に切り込んでいこうと意気込む裏にある思いを聞きました。

目標を叶えるためには、事業を起こすしかないと思った

―はじめに、家庭医を目指された理由を教えてください。

患者さんの病気だけでなく人生すべてに関わりたいと思ったからです。
研修医の時に勤めていたある病棟では、想像以上に80~90代の患者さんがいました。若い患者さんであれば治療をした分の回復が見込めますが、高齢の方はそうもいきません。加えて、退院できる状態になっても介護施設への入居を待つ社会的入院が多く、病院の管理部からは「なぜ退院できないのか」とプレッシャーをかけられる。こうした状況を見て、高齢者医療はこのままでいいのかという問題意識が芽生えるようになりました。

病院では病気に注目しがちで、患者さん一人ひとりの人生に関わることが難しいのではないか。そう考えた末に、家庭医になれば自分の問題意識を解決する糸口が見つかるのではないかと思ったのです。医療生協家庭医療学レジデンシー・東京の専門研修で家庭医療専門医を取得し、都内の診療所で外来や訪問診療を行うことにしました。

-勤務医として働き続ける選択肢もありながら、どのような経緯で開業を決めたのでしょうか。

正直、専門医取得後は、キャリアビジョンも明確でなく、開業するなんて夢にも思っていませんでした。しかし、日々の診療だけでは自分の問題意識を解決できないと漠然と感じていたので、コミュニティデザインやファシリテーションの勉強会を渡り歩いたり、社会起業家のコミュニティに出入りしたりしているうちに、心境の変化が生じて―。2017年4月に訪問診療専門のぴあ訪問クリニック三鷹を開業しました。

―外部の勉強会で、どんな心境の変化があったのですか。

「2025年、2035年に向けてもっと行動していかなければだめだ」と思うようになりました。

特に大きな学びを得るきっかけとなったのは、「HEISEI KAIGO LEADERS(以下、HKL)」という団体での活動です。介護業界をよくしたいと思う人たちの集まりで、わたしも運営側にまわって参加し続けました。HKLのイベント「PRESENT」では、約2年間、医療・介護・福祉業界にとらわれないさまざまなゲストを呼び、学びの場を提供していたのですが、その中で出会うゲストやオーディエンスが本当に刺激的で。そもそも医療従事者だけで高齢者医療の議論をしても、凝り固まってしまうのは目に見えている。本質的な解決を目指すなら、病院を飛び出して医療以外の業種・業界とコラボレーションをするべきだという思いは、さらに強まりました。そして、「高齢者が幸せに暮らせる環境をつくる」という、自分の人生の目標は、事業を起こさなければ始まらないと思うようになったのです。

訪問診療 三鷹市―ちなみに、クリニックの経営ノウハウは、どのように身につけていったのでしょうか。

わたしが足りないもの、それは事業を創るビジョンと経営、マネジメントだったので、これまで事業を創り続けてこられ、上場に至った経験を持つメドピア株式会社の石見陽先生とタッグを組むことにしました。

やはり当初は、事業を起こそうとしても経験のなさを痛感した時期がありました。それは医学部の授業や家庭医の研修でも目の前の患者さんを良くすることに集中しているため、経営やマネジメント、お金のことなど事業に必要な学び・経験がほぼ皆無だったからです。

そうした悩みを抱えていたときに出会ったのが石見先生です。講演を聞きに行った時に、自身も医師であり起業家でもある石見先生が「医師は、臨床・研究・教育の3本の柱から、これからは事業を創るという4本目の柱が大事」とおっしゃっていたことに、強く共感しました。その後、個別に話を聞きにいったところ、会社の方針としても主軸のIT事業とリアルな医療現場のシナジーを検討していく時期だったようで、わたしの超高齢社会の課題意識、在宅医療の今後の必要性をお伝えして意気投合。石見さんにはメンターとして、経営に対する相談に乗ってもらっています。最近だと採用計画や迷った時の判断プロセス、事業展開の見通しについてなど、避けては通れない経営課題に示唆を頂くことで、1歩1歩着実に進めているところです。

ゼロからの仕組みづくり、開業当初は診療報酬請求も自ら行う

東京都三鷹市-ところで、なぜ東京都三鷹市に開業したのですか。

三鷹市は昔から憧れていた地域ですが、やはり高齢化が進んでおり、在宅医療のニーズは高まっていました。一方で、多職種連携の土台がしっかりしていると感じたので、今までわたしが培ってきた家庭医やファシリテーターとしてのスキルが生かし、やりたい医療が思いっきりできる地域だと思いました。そして、この土台を基に、より連携を強化していけば、まずはこの地域で「高齢者が幸せに暮らせる環境」が実現できると思ったのです。

―開業にあたって苦労したことは何ですか。

決断しなければいけないことが山のようにあり、すべて自分でやらなければならなかったことですね。クリニック立ち上げ前は電子カルテの選定や車両購入、クリニックの賃貸契約など、慣れないことをものすごいスピードで決めました。2017年4月に開業した後も、約3カ月間は看護師がおらず、事務スタッフとわたしの2名体制。立ち上げから約5カ月間の診療報酬請求は点数の付け方を覚えながら自分で行っていました。

そんな状況なので、情けない経験もたくさんしました。自分で診療バッグの中身を詰めて現場に行ったら必要な物品が入っておらず、慌てたことがありましたし、1つ1つの契約や支払いも初めてで戸惑いの連続でした。何となく耳にしていた企業が、医薬品卸業者だったということも開業してから知りましたし。開業から半年経って医療事務経験者の入職も決まり、徐々に落ち着いてきたところです。
でも、こうしたゼロからの仕組みづくりを通して、既存の法人にはさまざまな知恵が積み重なってできていることを実感しましたし、多様な業務経験が自分の幅を広げてくれたと思っています。今までの自分では想像できないほど、事業を創るための姿勢や基礎ができてきたと思います。

地域のリソースを適切なタイミングでつなげ、ITとの融合を目指す

―地域にどんなアプローチをしていくのですか。

まずは、引き続き連携強化に取り組んでいきたいですね。これまでの在宅医療の経験から自分一人の限界を痛感していたので、院内外問わず、多職種連携の必要性を感じています。
わたしが開業している三鷹市や隣接する武蔵野市では、毎月のように介護系の勉強会や連携会が開かれています。また、医師会に入ったことで武蔵野赤十字病院や杏林大学医学部付属病院の登録医になり、地域連携室とも顔の見える関係ができました。その他さまざまな病院へごあいさつに伺いましたが、突然の訪問でも院長が対応してくれるなど、連携に対して非常に前向きでした。武蔵野三鷹地域から杉並区まで含めると緩和ケア病棟が3病棟あるので、終末期のがん患者さんも安心できる地域だと思います。

ここでのわたしの役割は、患者さんが在宅医療を利用して住み慣れた地域で生活を続けていくために、地域のリソースに適切なタイミングでつなげていくことだと考えています。例えば、患者さんが慣れた病院にスムーズに紹介することも大事ですし、患者さんの病状に合った病院につなげていくことも意識しています。そのためには、日頃から情報収集をして顔の見える関係性を広げて、地域全体のファシリテーターになりたい。まだ、1拠点目が立ち上がったばかりでやらなければいけないことは山積みですが、まずはこの武蔵野三鷹地域のファシリテーターとして地域の連携強化に取り組みたいと思います。

―今後の展望を教えてください。

在宅医療は1人だと限界があり、持続可能性が低くなってしまうため、もっと人を増やしていかないと手詰まり感がでてくると考えています。「この先生だからできた」では日本のためになりませんし、医師の自己犠牲で成り立つような世の中にはしたくありません。

その地域の特色に合わせながらも、在宅医療の仕組みを標準化し、想いのある若手医師を巻き込んでいくことで、相互に助け合える体制を構築していきたいと思っています。まだ検討段階ですが、メドピア株式会社の石見先生もおられるので、在宅の現場とITの融合も積極的に考えていきたいですね。

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