総合診療医に、今こそアイデンティティを。
医療を揺さぶりつづける丸山泉。
2010年4月1日に誕生した日本プライマリ・ケア連合学会(以下、プライマリ・ケア学会)は、「連合」の言葉が示すように3つの学会が合併してできた学会である。医療の細分化にともなって酷似した学会が乱立する中、その流れに異を唱えるように日本プライマリ・ケア学会、NPO法人日本家庭医療学会、日本総合診療医学会がひとつになる報が、当時の医療界に投げかけた衝撃の大きさは記憶に新しい。そして、初代理事長の前沢政次からわずか2年で新生学会を引き継いだのが丸山泉だ。難産のすえ未熟児で生まれた赤ちゃんが保育器から出られるか否かは、彼の手腕にかかっている。「どうせ、かたちだけの合併だろう」。関係諸氏の声が聞こえそうだが、丸山は医療界の諦観や薄笑いなど意に介さない。「3つの学会は反目し合っていましたが、医療環境が激変する中で小競り合いをしている場合ではない、価値観のリセットを要するほど、たいへんな時期に差しかかっているとの危機感を共有しました。外部からどう見られているかは知りませんが、少なくとも3つの学会に籍を置く会員たちは自らの意識改革の必要性を悟ったすばらしい方々の集まりでした。結果、無理だろうとのおおかたの予想を覆し合併がかなったのです」。新学会が保育器から出される日がそこまできている。不可能を可能にする唯一無二の人、丸山泉の源泉に迫った。
すべての医師会活動から突然、身を引く
『いまどちらを向くべきか』と題する著書を出版したのは2010年。福岡県にある小郡三井医師会の会長の任に就いていた丸山が、誤解多き医師会に身を置き、希望と諦念の間を揺れつつ、地域医療のために悪戦苦闘する20年の軌跡と提言を記した1冊である。驚くのは、そのあとだ。上梓後、すべての医師会活動から身を引き、数多(あまた)の肩書を返上した。
「地域で長く医療活動にたずさわると、限られた範囲で考えが固定して視野が狭くなり、医療の本質を見失ってしまう。そんな危機感を覚えて執筆を始めたのですが、筆を進めていくうちに自己矛盾に次々と気づいてしまった。
このまま自分をごまかしつづけられない。一度、権威的なものから離れる必要性を感じたのです」
しかし、プライマリ・ケア学会の籍だけは残した。
「実は、前述した本のまえがきを前理事長の前沢先生にお願いした経緯からなんとなく除籍しないですませてしまった。本当はあのとき辞めていてもおかしくなかったのです。軽い気持ちから籍を抜かなかっただけ。しかし、それだけに、今では何か運命的なものを感じます」
議論、議論、議論でひとつにまとめる
プライマリ・ケア学会は、やがて丸山に大きな任を授けた。彼が再び表舞台に出る決意をしたのは、次世代の医師のためだ。
「日本の医療が、崩壊の道を進んでしまっている状況には、忸怩(じくじ)たる思いがありました。おそらく、これほど悪化するまでに転換する機会はいくつかあったはずです。
医療現場の疲弊を生み出してしまった責任は、転換のチャンスにやるべきことを行わなかった我々世代の医師にあると自覚していました。3つの学会をひとつにするという戦後最大のエポックを成就させ、医療を明るい方向に導ければ、最後のご奉公になるのではないかと思えたのです」
在野の彼に、理事長就任を打診したのには、同学会のまさに本気が感じられる。
「僕が理事長になったのは、消去法です(笑)。もし、違うとするなら、唯一考えられる理由は、僕の目線がかなり未来にあるからでしょうか。とにかく次世代のために議論する。自分ではなく若い医療人のため、今ではなく将来のための議論です。当学会では、徹底的に議論をしていただきます。総合診療とは何か、どんな意義があるのかなど、そんな初歩的なことからです。皆さんがまちまちに違う方向を見ている。どうやってひとつにまとめていくか――議論、議論、議論ですよ。すると必ず収まる、収斂していくのです」
次第に臨床に「はまっていった」
丸山の原点を彼の父の存在なしには語れない。
医師で詩人だった父は旅行中のアメリカで落命した。それを機に丸山の人生は大きく動く。大学に残って研究をしたいと願っていたが、父の経営する病院の跡を継ぐことを余儀なくされたのだ。
「僕は大学で肝臓内科の研究に没頭していました。研究者としての適性はあったと自負しています。
しかし、父の急逝によりすべてを転換せざるをえない状況に置かれたとき粛々と運命を受け入れました。まずは肯定して受け入れる――幼いころから身についた姿勢です」
30代の若さで、父が手がけていた、今で言う在宅医療やリハビリテーションなどを中心に展開する高齢者医療を一手に担い始める。それまでとは、まったく違う世界だった。
「一般的に医師は疾患のみを診て治療に専念します。しかし、特に高齢者医療は患者さんの背景にある家族や生活環境が否応なしに見えてくる、見なければ診療できない現実があります。
患者さんのバックグラウンドを知って治療する――面倒と思われる医師もたくさんいるでしょうが、試験管ばかりを振っていた僕には、むしろきわめて新鮮でした。
興味を掻き立てられ、次第に臨床の魅力にはまっていきました」
さまざまな思想の中で育つ
プライマリ・ケア学会の理事長という大役を拝するが、プレッシャーなどものともせず、繰り出される言葉は常に前向きだ。鷹揚さは前述の発言にあるように、「まずは肯定して受け入れる」性格に起因すると推測される。そうした人格は、いかにして形成されたのか。
「すでに述べましたように、父、丸山豊は医師であると同時に詩人でもありました(團伊玖磨作曲、丸山豊作詞の合唱組曲『筑後川』は全国で歌われつづけている)。
父は自宅を開放し、さまざまな思想の持ち主を分け隔てなく受け入れていた。自宅は別名『丸山塾』と称され、毎日のように、左翼から右翼まで大勢の人々が集まり、議論を闘わせていました」
たとえば、三池炭鉱の争議中には、血だらけになりながら炭鉱を守ろうと闘う人も来るし、彼らを制圧する側の人も集ってきたという。感受性が鋭い時期にきわめて多様な価値観を目の当たりにした経験が、少年に及ぼした影響が計りしれないほどだったのは容易に想像できる。
丸山は、プライマリ・ケアを端に追いやった日本の細分化しすぎた医療構造についてさえも肯定する。
「仕組み、制度は、時代の要請があってこそ生まれる。今の否定は、過去において積み重ねられてきた議論の否定にしかならず、事態の収拾を困難にするばかり。
一度はすべてを受け入れて過去から学ぶ姿勢を忘れてはなりません」
間接話法で多くを教えられる
広い懐で物事を受け入れる一方で、妥協を良しとしない性分もまた父親譲りだ。
父の話をするとき、風情が若干変わる。どれほど敬い、強い影響を受けているかが、彼の声の振動から伝わってくる。
「父は太平洋戦争でビルマから中国北部に司令部つきの医師として赴き、7年ちょっとして、なんと上官少将の腕を持って帰ってきたそうです」
司令部から上官少将にきた命令は「軍神」になれ。つまりは、隊を玉砕させよとの意味であった。
「しかし、少将は隊に南方へ転進しろと指示し、司令部の命令に反した責任をとって自害されました。隊の何人かが、少将の遺徳を日本に伝えるため、髪の毛や爪、切断した腕を日本に持ち帰りました。
父は僧衣をまとって生き延び、少将の遺族に腕をお届けしました」
丸山はずっとこの話を知る機会を持たず、地元の新聞に掲載された父の随筆で初めて知ったという。
「父は、『ああしろ』、『こうしろ』などと指示したり、ましてや自分の経験を語ったりする人ではなかった。ただ間接話法で多くを教えてくれました。
兵隊さんの命を守り、けがを治療するために戦地に行った。だが実際は、まともな医療などできず、命を守るどころか、逆のことをせざるをえない状況に陥っていった。
さらに、戻ってみると故郷の久留米は空襲で焼け野原。すさまじい経験を経て戦後、父は、人の命を救う医療にのめり込んでいきました。24時間断らない医療の実践などは、その象徴でしょう」
これ以上の絶望はないというほどの状況を生き抜いてきた人が行う医療に「妥協」の2文字はなかった。そしてその背中を見てきた息子にも「妥協」は無縁になっていった。
必須の診療分野との認識が確立
質のばらつきが問題視されていた専門医について厚生労働省の有識者検討会が第三者機関が統一して認定することを柱とする最終報告書をまとめた。
今回の改革は、プライマリ・ケア学会にも大きな転機をもたらした。同検討会では乱立する学会と専門医を整理しようと「基本領域専門医」を定めたが、そのひとつに総合診療医が挙げられたのだ。総合診療が、超高齢社会に突入している日本の医療を支えるために必須の診療分野だとの認識が示されたのである。
「現在、プライマリ・ケア学会では、総合診療の専門医として、ふさわしい専門医制度のバージョンアップを進めています。
我々がめざすのは、医療スキルを身につけているだけでなく、家庭や地域の人々の幸せ、ひいては国の財政までを考慮し皆の幸せを考えられる医師の育成です。こう申し上げても、ピンとこない方が大勢いるでしょう。従来のように専門医を技術だけの尺度で捉えようとすると、想像し難いかもしれません。ただ、だからこそ総合診療専門医の像を示す意味があるのだと思っています」
総合診療医を基本領域専門医に入れるべきかどうかについては、激論が重ねられたと聞く。「内科の専門医があれば十分、それと何が違うのか」という反対意見があるらしい。しかし前述したとおり、総合診療医は社会性を追求される点、地域を診る深さなどで、内科医とはまったく違う。
「総合診療医を基本領域専門医に入れるメリットのひとつは、皆で協議をしながら、総合診療医像を確立できる点にあります。
これまでわかりづらく、概念が曖昧だった総合診療医が、いかなる医師かを社会に示すことができる。
全国でバラバラだった養成プログラムも統一され、総合診療医全体の質向上にもつながるでしょう」
また、スペシャリティとして認知されていなかったせいで、総合診療医が下位に見られる傾向があった。地域医療を支える医師が、優秀であるにもかかわらず、医師としてのアイデンティティを持てずに、肩身の狭い思いをするケースも多々あったようだ。総合診療の専門医が誕生すれば、彼らは他の専門医と互角に対峙できるようになるだろう。
「総合診療の専門医をつくる意義は多くあります。歴史の審判に堪えられるような専門医をつくり、日本の総合診療医の地位を確立したい。
総合診療は、長年紆余曲折を繰り返してきましたが、社会に目を向けつつ医療を行いたいと願う次世代の医師のために、もう失敗は許されないと思っています」
単なる思いつきで終わるかひとつの志となるか
「僕は、次世代の医師らを信じていますから、これからの医療について、なんの心配もしていません。全人的医療ができるすばらしい医師が育っていますよ。僕らが恥ずかしくなるくらいすごい人たちがたくさんいる」
丸山は、日本の医療の将来に微塵の不安も抱いていないようだ。
「現在、新学会の運営に懸命なのは、先程も触れたように、彼らへの申し訳なさでやっているだけなんですね。僕らが、崩壊に瀕するまで何もしてこなかった。僕らが、医療を壊したと言ってもいいかもしれない。
だから、せめて若い彼らを守らねばと思っているのですが、彼らは想像以上にタフですよ。だから雑音を気にせず、自信を持って進めとエールを贈りたい。きっかけさえつくれば転換期を逃さないでくれると期待しています。皆で支えていけば、もっともっとたくましくなります。
こういう難局のときこそ、医療を揺さぶりつづけるのです。辛抱強く、諦めずに揺さぶりつづける。不可欠なのは、明るさかな。明るい気持ちでへこたれなければ、不動と思われたものも動かすことができる。ネアカのびのびへこたれず(笑)」
大らかな微笑みのもとに、強固な志があった。どんな思想も観念も、最初はちょっとした思いつきにしかすぎない。それが、単なる思いつきに終わるか、ひとつの志となるかは、ひとえに持続できるかどうかにかかっている。
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