1. m3.comトップ
  2. キャリアデザインラボ
  3. キャリア事例
  4. 事例
  5. 40代でパーキンソン病「医師を続けられない」 ―病とキャリアvol.7(前編)
事例

40代でパーキンソン病「医師を続けられない」 ―病とキャリアvol.7(前編)

2020年3月23日

順風満帆な生活から一転、晴天の霹靂のごとく襲いかかった難病──。橋爪鈴男先生は、40代でパーキンソン病を発症し、大学病院の助教授(当時)の職を辞すことを決意します。身体機能が衰えていく自分の姿に苦悩し、自殺を考えたこともあったそうです。しかし、生きる意味を見出し、再び医師として復帰するに至りました。前編では、突然の発症から大学病院の辞職を決意するまでのエピソードをお聞きしました。(取材日:2020年2月20日 ※インタビューは、資料や文書による回答も交えた形式で実施しました)

主治医の忠告に従わず、無理を重ねた結果…

——先生は、医師として脂が乗っている時期にパーキンソン病を発症したとお聞きしました。初期徴候はあったのですか。

最初に異変があったのは39歳のときでした。母校の聖マリアンナ医科大学皮膚科学教室で、主任医長を勤めていた頃です。私は悪性腫瘍の研究を専門としていたのですが、ある日、実験中にピペットを握っている右手が小刻みに震えていることに気づいたのです。一瞬、パーキンソン病の事が頭をよぎりましたが、典型症状(安静時の片側の手足の振戦)に当てはまらないですし、緊張によるものだろうと考えていました。その後も動作時振戦は続いていましたが、気に留めることはありませんでした。

しかし、その3年後に明らかな異変が生じました。カルテを書く文章が右下がりになり、文字も小さくなっていたのです。もともと筆圧が強い方でしたが、その頃には筆圧も弱くなっていて、カーボン紙の複写もまともにできませんでした。そして、右手と右足には激しい倦怠感を覚えるようになっていました。歩行時には、無意識のうちに右足を引きずるようになり、看護師からは「おじいさんが歩いているみたい」と指摘されるほどでした。 そこで初めて勤務先の神経内科を受診したところ、医師からは迷うことなく「パーキンソン病」と告げられました。その時は、診断結果を深刻には受け止めず、「薬を飲めば症状が抑えられるだろう」と軽く捉えていたのです。

——服薬しながら、医師として働き続けていたのですか。

そうですね。当時は、いわゆる“中間管理職”である助教授に昇進したタイミングだったので、なかなか仕事のペースを落とすことができなかったのです。医学の進歩に追いつくのにも懸命で、「退職すれば、築いてきたものが全て崩壊する」と思い込んでいました。主治医からは「仕事量を8割程度に制限してください」と忠告されていたにも関わらず、無理を重ね、薬も自己判断で増量してしまっていました。 すると次第に、薬効時間の短縮により症状が変動する「ウェアリング・オフ」といわれる症状が現れました。さらに、動いていた体が突然動かなくなったり、逆に動かなかった体が急に動くようになったりする「オン・オフ」症状も激しくなっていって──。運動症状が服薬で抑えられないようになる中で、外来治療を受けたり、時には入院したりしながら、大学病院の本院や関連病院での勤務を続けていました。

出向先の病院には、褥瘡治療が必要なパーキンソン病の受け持ち患者さんもいました。初診では歩いていたのに、次の受診時には病状が進行していて車椅子で来院している方、自力での体位変換が困難となり潰瘍が出現した方の姿に、つい自分の将来を重ね、落ち込んでしまうこともありました。この時ばかりは、「医師にならなければよかった」と思いましたね。

大学病院を辞めるのは、医師を辞めるも同然

——退職を決意したのは、いつのことですか。

最初に診断を受けてから9年後、50歳のときです。1年間休職させてもらった後に決断しました。その時には、満足に手足を動かすこともできず、仕事を続けることが難しい状態になっていました。 私にとって大学病院を辞めることは、医師を辞めるも同然のこと。「これまで頑張ってきたものは一体何だったのか」と、絶望的な気持ちに襲われました。満足に動かせない手足やうらぶれた姿を誰にも見られたくなくて、日曜に職場へ出かけて、コソコソと片付けを行いました。

その頃には、運動症状だけでなく、幻覚や幻聴、幻臭といった精神症状も出現していました。真冬なのに周囲にゴキブリがうごめいている様子が見えたり、見知らぬ人の「謝れ、謝れ」と叫ぶ声が聞こえたり、甘ったるい香りがするようになりました。さらには妄想も出現し、あらぬことで家族を疑い、トラブルを招くようにもなっていきました。 これ以上、妻や娘たちに迷惑はかけられない。そう考えた私は自宅を離れ、一人暮らしの80代の母の家事を手伝う名目で、埼玉県の実家に居候させてもらうことにしたのです。

今の働き方を変えられないか、とお考えの先生へ

まずは現職でご希望を叶えられないか模索いただくことをお勧めしていますが、もしも転職する以外になさそうであればご連絡ください。

現職では難しくとも、他の医療機関や企業などでなら実現できるケースがあります。

週4日勤務、時短、当直・オンコール免除、複数医師体制、担当業務を抑えるといったことは求人に記載されず、医療機関とのご相談次第なことも少なくありません

エムスリーキャリアにお問い合わせいただければ、先生のご希望をどのように実現できそうかお伝えいたします。

この記事の関連キーワード

  1. キャリア事例
  2. 事例

この記事の関連記事

  • 事例

    「自分が理想とする糖尿病診療を追い求めて」開業へ

    小児糖尿病の宣告を受けるも、「糖尿病だってなんでもできる」という医師の言葉をお守りに自らも医師を志すことを決意した南昌江内科クリニック(福岡市)の院長、南昌江先生。現在の糖尿病専門科医院を経営するようになった軌跡を伺います。

  • 事例

    小児糖尿病にならなければ、医師の私はいない

    福岡市にある糖尿病専門科医院、南昌江内科クリニックの院長・南昌江先生は、ご自身が中学2年生の際に小児糖尿病を宣告された身の上です。病気を発症した前編に続き、今回は医療への水差し案内人となった医師との出逢いや転機となった出来事について伺います。

  • 事例

    14歳で1型糖尿病「前向きに考えて生きなさい」

    14歳の夏、”小児糖尿病”の宣告を受けた南昌江先生。その数年後、両親や主治医、同じ病気の仲間たちに支えられ医学部受験、医師になるという夢を果たしました。前編では、病の発症、闘病生活について伺います。

  • 事例

    視力を失った精神科医だからできること

    網膜色素変性症を抱えながら、精神科医となった福場将太先生。容赦なく病状が進行する中で、一度は医師を辞めようと考えた福場先生でしたが、様々な人々との出会いで医師を続けていこうと決意します。

  • 事例

    辞職か、継続か…視力を失った精神科医の葛藤

    医学部5年生の時に、網膜色素変性症を発症した福場将太先生。次第に視力が衰えていく現実に、迷い、葛藤を覚えながらも、医師の資格を取得されます。

  • 事例

    「見えなくなっていく」卒試、国試前に病を発症

    網膜の機能が低下し、人によっては視力を失うこともある網膜色素変性症。次第に視力が衰えていくこの病気は、福場将太先生に、医師として、一人の人間としてどう生きるかを、常に問いかける存在でした。

  • 事例

    不治の病を抱えながら、クリニックの院長へ

    40代でパーキンソン病を発症し、50歳で医師として働くことを辞めた橋爪鈴男先生。後編では、再び医療の世界に戻った時のエピソードと、病を抱えるようになって変化したことを語っていただきました。(取材日:2020年2月20日 ※インタビューは、資料や文書による回答も交えた形式で実施しました)

  • 事例

    「もう死にたい」動けない医師が光を見出すまで

    皮膚科医として、順調なキャリアを築いてきた橋爪鈴男先生。しかし、40代でパーキンソン病を発症した後、大学病院を辞すことを決意します。中編では、絶望を救った一つの言葉と仲間の支え、そして新たな治療を経て見つけた生き甲斐についてお話をうかがいました。

  • 事例

    「患者さんを否定しない」傷ついた経験を糧に

    医師であり、線維筋痛症の患者でもある原田樹先生。自分や周囲にとって最善の働き方を模索しながら、3次救急病院の救急科で働き続けています。後編では、病に対する考え方の変化と、新たなキャリアについてお聞きしました。

  • 事例

    線維筋痛症の女医が、救急医の道を選んだ理由

    線維筋痛症を抱えながらも、厚生連高岡病院(富山県高岡市)で働く原田樹先生。中編では、臨床研修後のキャリアをどのように選び、切り開いていったのかをお聞きしました。

  • 人気記事ランキング

    この記事を見た方におすすめの求人

    常勤求人をもっと見る