1. m3.comトップ
  2. キャリアデザインラボ
  3. キャリア事例
  4. 事例
  5. 「消毒薬が死の原因をまき散らしている」?異文化圏で医療に携わる難しさとは ―国境なき医師団の現場から【2】
事例

「消毒薬が死の原因をまき散らしている」?異文化圏で医療に携わる難しさとは ―国境なき医師団の現場から【2】

2017年5月23日
©MSF

医療人類学的な物の見方からすれば、人びとの病気への理解や対処の仕方は、国や文化によって千差万別。グローバル化する社会に生きるわたしたちには、医療の多様性を尊重することが求められています。しかしその一方で、わたしたち医療者には、ときに国や文化を越えて、人びとの病気への理解をひとつの方向へ導かなくてはならない場合があります。 【執筆:鈴木基(国境なき医師団/内科医・疫学専門家)】

現地の“当たり前”が感染を断つ障壁に

2014年10月、わたしは国境なき医師団(以下、MSF)の疫学専門家として、エボラ対策支援のためにリベリアのロファ郡に派遣されました。ロファ郡はギニアとの国境近くにあり、同年3月にリベリアで最初のエボラ患者が確認された場所です。アウトブレイクの発生後、MSFはただちに現地医師と協力してエボラ治療センターを立ち上げ、感染者を封じ込めるための活動を開始。しかし、住民たちの協力が得られず、活動は難航するばかりでした。

アウトブレイク発生当初、住民たちはエボラという病気を知りませんでした。そのうえ親族や知人が病気になれば伝統治療師を頼り、寄り添って看病し、亡くなると皆で遺体を清めて埋葬するという、これまで通りの生活を営んでいました。それが感染者を増やす原因であるとは、全く想像もしていなかったでしょう。個人用防護具(PPE)を着た医療スタッフが村にやってくると、森の中に逃げ込み、ときに石を投げつけてくることも。消毒薬をスプレーしてまわる姿を見て、死の原因をまき散らしていると考えていたのです。

こうした状況を打開するために、MSFは文化人類学者を派遣して住民たちの病気への理解を探り、心理療法士、ソーシャルワーカー、地元ボランティアからなるチームを結成。彼らは村々をめぐり、エボラについてわかりやすい言葉で話しかけ、熱があればすぐにエボラ治療センターに電話をすること、誰かが亡くなったときは伝統的な葬式をするのではなく、専門の埋葬チームに委ねることを繰り返し説明していきました。また、エボラから回復した患者が村で差別されないように、住民たちの前で回復者と抱き合って見せることもありました。

防げたかもしれない、少年の死

わたしが現地へ入ったのは、こうした地道な活動が少しずつ実を結び、患者数が減ってきていたころでした。前任者からの引き継ぎが終わり、仕事にも慣れてきたある日、男の子が自宅近くの小屋で亡くなっているとの連絡が。遺体から検体を回収し、PCR検査をした結果、エボラ陽性でした。わたしは現地スタッフと村へ向かい、住民から聞き取り調査を行いました。

亡くなった男の子は10歳で、ジョセフ(仮名)といいました。彼の母親はエボラ治療センターに入院していましたが、幸いにも回復。しかし退院して村に戻った母親は、恐れを抱いた住民たちによって小屋に閉じ込められてしまったのです。取り残されたジョセフは自宅で3歳になる妹の面倒を見ていましたが、まもなく妹は亡くなりました。村人たちに妹の遺体を運ぶよう指示されたジョセフですが、その後の行動は誰にもわかりません。次に見つかったときには、すでに亡くなった後だったのですから。

わたしはスタッフと一緒に、村はずれにある墓地で行われた、ジョセフの埋葬に立ち会いました。たくさんの真新しい墓標が並ぶ中、彼の遺体は母親と数人の親族に見守られながら、PPEを着た埋葬チームの手で静かに埋められました。ジョセフの周りの人たちが、もう少し正しくエボラを理解していれば、彼は犠牲にならずに済んだのかもしれません。エボラ治療センターに戻ったわたしたちはミーティングを開き、住民のエボラへの理解がまだ十分ではないこと、教育活動を続けることの重要性を確認したのでした。

医療文化のボーダーラインとは

西アフリカで発生したエボラアウトブレイクがわたしたちに突き付けたのは、世界のどこかで発生した感染症が、国境を越えて国際社会のリスクになるという現実でした。それは、地球の裏側に暮らす人たちの、わたしたちとは異なる常識や生活が、わたしたちの脅威になりうることでもあります。どこまでが医療文化の多様性として許容され、どこからは許容できないのか。それとも、やはり「正しい医療」はひとつでなくてはならないのか。実際のところ、そこには簡単には答えが導き出せない問題がありそうです。

鈴木 基
すずき・もとい

1996年東北大学医学部卒業。公立刈田綜合病院内科研修後、1999年より長崎大学熱帯医学研究所臨床感染症学分野所属。2003年より国境なき医師団の派遣に参加し、スリランカ、パレスチナで活動。2006年~08年長崎大学ベトナム拠点プロジェクトの一員として、ベトナムに在住し、大規模コホートプロジェクトに従事する。2009年ロンドン大衛生熱帯医学校途上国公衆衛生学修士課程修了。2014年長崎大学大学院医歯薬総合研究科博士課程修了(博士(医学))。日本臨床疫学会上席専門家。2016年より国境なき医師団日本理事。

今後のキャリア形成に向けて情報収集したい先生へ

医師の転職支援サービスを提供しているエムスリーキャリアでは、直近すぐの転職をお考えの先生はもちろん、「数年後のキャリアチェンジを視野に入れて情報収集をしたい」という先生からのご相談も承っています。

以下のような疑問に対し、キャリア形成の一助となる情報をお伝えします。

「どのような医師が評価されやすいか知りたい」
「数年後の年齢で、どのような選択肢があるかを知りたい」
「数年後に転居する予定で、転居先にどのような求人があるか知りたい」

当然ながら、当社サービスは転職を強制するものではありません。どうぞお気軽にご相談いただけますと幸いです。

エムスリーキャリアは全国10,000以上の医療機関と提携して、多数の求人をお預かりしているほか、コンサルタントの条件交渉によって求人を作り出すことが可能です。

この記事の関連キーワード

  1. キャリア事例
  2. 事例

この記事の関連記事

  • 事例

    日本の当たり前を再考する渡航医学の視点

    さまざまな診療領域の中でも、コロナ禍で大きな影響を受けている「渡航医学」。中野貴司氏は日本渡航医学会の理事長を務めつつ、川崎医科大学の小児科教授、病院の小児科部長としても働いています。改めてこれまでのキャリアを振り返りながら、「渡航医学」の視点がキャリアにもたらすプラスの要素を聞きました。

  • 事例

    コロナで大打撃「渡航医学」の今

    新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって、大きな影響を受けているのが「渡航外来」や「トラベルクリニック」です。各国への出入国が従来よりも難しくなっている今、渡航医学(トラベルメディスン)の現状と未来を、日本渡航医学会理事長の中野貴司氏に聞きました。

  • 事例

    「医療的正しさ」を追求した女医が選択した道

    これまで計7回、国境なき医師団(MSF)の活動に参加している團野桂先生。その度にぶち当たる課題を解決すべく、日本やロンドンで勉強されています。後編では、團野先生がMSFの現場で見てきた実情、帰国後の活動やキャリアの築き方に迫ります。

  • 事例

    なぜ「WHOで働く」という夢を自ら諦めたのか

    ロンドンに渡って公衆衛生を勉強しながら、ジュネーブのWHO本部でのインターン勤務を経て、現在は国境なき医師団(MSF)の活動に精力的に取り組んでいる團野桂先生。大阪のホームレスが多く入院する病院での勤務経験から臨床医療の限界を感じるなど、理想と現実のギャップの狭間で揺れながら、自分が進むべき道を果敢に切り開いています。

  • 事例

    「祖国救え」在日アフガン人医師の奮闘

    島田市でレシャード医院を開業するレシャード・カレッド先生は、留学生として来日後、日本で医師免許を取得。日本での医療活動のみならず、祖国アフガニスタンでも救援・医療支援を続けています。一人ひとりの患者に寄り添うというのが医師の根本であり、場所は問題ではないというレシャード先生。活動の内容や、掛ける想いを聞きました。

  • 事例

    「アフガンで兵士になるか、日本で医師になるか」極限の選択

    静岡県島田市でレシャード医院を開業されているレシャード・カレッド先生。留学生としてアフガニスタンから来日し、今年でちょうど50年になります。レシャード先生が日本を留学先に選んだ理由から、医師国家試験取得時の苦労、そしてこれまでの医師としての活動についてお話を伺いました。

  • 事例

    日本在住でも「国際保健のスペシャリスト」になるために―坂元晴香氏

    小学生の頃に国境なき医師団に憧れて以来、国際保健の道に進もうと考えてきた坂元晴香氏。医学生となり、途上国の現場を見たことで少し考え方が変わり、現在は日本にいながら国際保健に携わっています。どのような考えを持って、今のキャリアを歩んでいるのでしょうか。

  • 事例

    「ルーティンではダメになる」医師が重んじる習慣

    2008年に初めて国境なき医師団(MSF)の活動に参加し、ナイジェリアへと渡った小杉郁子先生。以降、定期的に活動に身を投じ続けているのは、日本の医療機関にいるときとは違う刺激を、現地で得られるからなのだそうです。小杉先生が国境なき医師団に参加するようになった経緯を紹介した前編に続き、後編では、現地でのエピソードを中心にうかがいました。

  • 事例

    「医師の子は医師に」?固定観念への違和感も

    医学部卒業後、ドイツ留学を経て現在は国境なき医師団(MSF)の活動に精力的に取り組んでいる小杉郁子先生(福井県済生会病院外科医長)。医師の家庭に生まれ、女性外科医としてキャリアを歩む過程で、さまざまな固定観念に疑問も覚えながら、今日のライフスタイルに至ったと語ります。国境なき医師団に参加する医師たちをインタビューする本連載。前編では、小杉先生が途上国に渡るまでのお話を中心にご紹介します。

  • 事例

    「安定より旅がしたい」ノマド医師の人生観

    母親の寄付活動がきっかけで幼い頃に国境なき医師団(MSF)の存在を知り、2011年の東日本大震災で救急医を目指すことを決意した真山剛先生。MSFで活躍するためのキャリアと経験を積んで、今もミッションに参加する傍ら、バックパッカーとして世界中を旅しています。活動中のある経験から、一時は参加を辞めることも考えたという真山先生。それでも活動を続ける理由とは、いったい何だったのでしょうか。

  • 人気記事ランキング

    この記事を見た方におすすめの求人

    常勤求人をもっと見る